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梶原にき 「月と水の夜」

古き良きJUNEを思いつつ

(1997.08.19/スコラ・幻冬社)


これだよ、これなんだよなぁーーー。
と、やたら読後得心してしまった。
梶原にき「月と水の夜」。

夏休み、父方の実家に帰省した少年、吉晴。昼間、近くを流れる川で水遊びをしたのはいいものの、川原に双眼鏡を忘れてしまった。
夜、忘れ物を取りに彼は川に向かうが、誤って川の中へ転落してしまう。
溺れる吉晴。と、そこを長着を着、赤い眼をした異形の者が彼を助ける。
彼らは――河童だった。
長着の下に甲羅を隠し、長い髪の中に皿を隠した、河童であった。
―――という、二人の河童と少年とまた彼の父との交歓の物語である。

全体の話は非常に淡い。
物語らしい物語の起伏もない。非常に小さな出来事から起こる些細な感情のゆらぎがこの物語の肝なのだろう。
で、そんな物語が、どうしようもなく、JUNEなのよぅ。

なんっつーか、ボーイズラブとか、やおいとか、JUNEモノ、とか色々呼び名があるアノ手のジャンルですが、いわゆるこれはJUNEだとおもう。
ま、そういったニュアンスでジャンル分けするのは一番愚かなんですけど(―――大体部外者にはわからないってっつうの) ともあれ、いわゆるそういったやおいジャンルの中でも、かくあるべきであった理想の形がきちんと残っている話だと思う。
やおいっつうのは、こう深化するべきだったんだよ――。
と、この本を読んだ私は声を大にして、いいたい。
「年下攻」だ「リバ」だ「やんちゃ受」だ「誘い受」だ―――以降やおい専門用語が延々と続く、とオタク的に果てしなく微分的なジャンル分けを積み重ね、結果、袋小路に入って、ただのエロ漫画になるのでなく、こういった作品を恒常的に生み出すシステムを出版は手助けし、作家たちは切磋琢磨すべきだったのだよ。


って、河童の物語じゃねーかよ、ホモじゃないじゃん。
なにか、それとも河童の男と少年とかその親父がよろしくなる話なのかよ。
と思った部外者のあなた。
――やおいって、ホモでなくても成り立つんですよ。
ていうか、「腐女子のエロ本」的なエグイ性表現だけのホモ漫画は、逆にやおいじゃないと私は思う。

やおいっていうのは、わたしは、「愛と関係性の物語」だと思う。

わたしたちは多くの人々の中で――いわゆる社会の中で、生きている。
そして、そのなかで、お互いがお互いをレッテル付けして生きている。
いわく、親、兄弟、娘息子、妻、夫、先生、友人、恋人、同僚、上司……。
そうやってレッテル付けすることによってはじめて関係性に意味が生まれて、関係が安定する。
それが人と人の繋がり、社会ってモノといえる。
が、実のところ、人とのつながりってそんな普通名詞ひとつで簡単にいえるものではない。
親子関係など一例をとっても、「親子」という言葉はひとつだけれど実に個々がそれぞれ持つ関係性というのは微妙に、違っている。
なぜなら全ての関係性には多かれ少なかれ愛という理ないものが介在するからだ。
しかし、周囲は「親子」という言葉でその関係を括ってしまう。

また、レッテル付けされてもそれぞれの関係性が千差万別であるのと同じように、レッテル付けできないけど確実に関係性がある、そういった淡い、まだ名が付けることができない愛情による人と人との繋がりってのものもある。
しかし、それは実体はあるのだが、それをあてはめる言葉=概念がないがために、実体としてなかなか認めることが難しい。
言葉という概念で括られないものはこの世に存在しないものでもあるのだ。
中島みゆきの「知人・友人・愛人・家人」という歌の通りに、どれにも当てはまらないと「(あなたにとって)私はどこにも席がない」状態なのである。

かくなるように、人と人の関係を言葉で言い表すのは難しい。――ま、その関係を結びつかせる愛憎といった感情というのは生得的なもので、言葉で区切られた概念の上にあるものなので仕方ないことなのだが。

という状況下で、「じゃあ、そういったレッテルを一回なかったことにして、人と人の関係ってのを愛をたよりに本質的に根源的に見直してみようじゃないの」
というのが、やおいの本質なんじゃないかなぁー―と思う。
その時に同性愛ってのは、人としての関係性・社会性の根幹にある家族を造り生み出すというシステムを拒否しているという点で一番扱いやすかったんじゃないかなぁーー。
また、やおいの一面である「アニパロ」という手法も既存のテキストにある登場人物同士の関係性の脱構築と再構築が目的なのである、といえるんじゃないかなぁ。と今回と激しく関係のないことを言う。

だから私は、良いやおいを読むと、つまらない社会的な鎧を剥がされ丸裸にされて「だからあんたは究極何者なのよ」と作者に凄まれているような気分にいつもなる。

とはいえ、わたしゃ、やおいの歴史においては初期の作品とその系譜を持つもの、漫画では24年組少女漫画群と彼女らをリスペクトする作家陣、小説では森茉莉、栗本薫、榊原史保美と中島梓の小説道場出身者あたりをメインとして読んでいるので、こういった情念のあり方が古臭いことも、 実際はただの「腐女子のエロ漫画」でしかない、と作家も読み手も思っている人が多く、事実それだけでしかない作品が量産されていることも百も承知である。
が、であるからこそ、この「月と水の夜」を読み、やおいジャンルはこうなるべきであった、と、思わずにいられなかったわけである。


この「月と水の夜」においても、明確に名付けできる関係は、少年吉晴とその父晴彦の「親子」という関係しかない。
そもそも、河童はなわばり意識が強く、単独で行動し、テリトリーに入った同属を悉く排除するという性質を持っているという設定なので、つまりは河童には友人という概念すらもない。
しかし、概念がないゆえに二人の河童――魚吉と清太の情の交歓が非常に濃密であり、物語中、特に目を惹く。

お互いの髪を結い合い、手を取り合って歩き、寂しい時はお互いの体をやさしく抱きしめあう。清太が魚吉に膝枕をしてやるシーンもあった。
が、ここに友人という概念がないのと同じようにここには恋人や夫婦という概念もない。
であるから、濃密であるが、決して先へも進まないのだ。
袋小路なのである。
お互いがお互いを占有したいという思いや、失いたくないという不安はうまれるが、だからといって、なにもそこからは何も進まない、進みようがないのだ。

この抜き身の刀のように鋭く危険で生々しい、えもいわれぬ感情だけがそこにあり、そしてそれがどこにも行き場のないところが「あぁーーーなんかJUNEだなぁ」って感じで切なくも、とても良かったのだ。
ただひたすらに一心な愛が寄せては返すばかりなのである。
空に思いを投げるように、流れる水に思いを流すように。

――ちなみになんでなわばり意識が強い河童の二人が一緒に暮らすようになったのかというと、自然開発によって水が淀み、清太は以前の棲家を追い出されしまう。新たな地を場所を探すが安住できるところはどこにもなく、彷徨の末、憔悴しきって魚吉の棲む川のほとりで倒れ伏してしまう、それを見つけ、忍びなく思った魚吉が彼を助け、その結果、という流れです。

とにかく、なつかしい「古き良きやおい」ですので、―――いい意味で山も落ちも意味も希薄だしね、機会がありましたら一読を。

2003.11.16

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