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反やおいとしての
「残酷な神が支配する」



萩尾望都「残酷な神が支配する」
1992〜2001年 「プチフラワー」連載
小学館/小学館文庫 刊



文庫版が出たせいか、あらためて語る人がリアルでもネットでもちらほらいるので、ちょっとだけ「残酷な神が支配する」の話をしたい。とはいえ、こんなものは草稿。 この漫画は私にとって語っても語り尽くせない話なので(――――イアンのおしゃれ泥棒具合にメロメロ『イアンのファッションブック』を出してくれとか、『イアンの"思わず言っちゃった"問題発言集』、『いつでも食べてる萩尾漫画 in "残酷な神"』などなど色々まとめちゃうぞとか――そういったアホ発言コミで語り尽くせない)軽いおしゃべり程度でちゃらぁーっと流します。


この漫画が連載されてしばらくからずっとわたしは雑誌連載で追っかけていたのだけれども、その時から――というかジェルミがグレッグを殺害する以前からずっと、この物語は「アンチ・やおい」物語なんじゃないかなぁ、と思っていた。

例えていうなら、中井英夫の「虚無への供物」がアンチミステリーの傑作といわれているのと同じような構造で、これはアンチやおいなんじゃないかなぁ、と。
中井英夫の「虚無への供物」はミステリー小説というシステムの虚構性、欺瞞を暴き、ミステリー小説のなかにある「殺人」でない、今現実にこの瞬間にもどこかである「殺人」という大罪のそのものの有様を読者にしらしめるために、トリックを見破ってくれといわんばかりの不可思議な殺人事件や意味深長な符号を物語に散りばめて本格ミステリーマニアの興味を最大限までそそっておいて最後の最後でひっくり返すのだけれども、 それと同じように、この漫画は少女漫画界で猖獗をきわめている「やおい」というものの虚構性と欺瞞を日のもとに曝すために作られた物語になるんじゃないかなぁ、とわたしは思ったのだ。

「やおい」というジャンルはたしかに萩尾望都をはじめとする24年組がひとつのきっかけとなってうまれたムーブメントだけれども、パイオニアである彼女らの作品というのは後に言う「やおい」と呼ばれるものとは明らかに一線をひいて何かが違っていたし、 そういった「やおい」というものに対するパイオニアのひとりからの回答がこの作品になるのかなあ、と。
存在自体が「やおい」論として成立する物語というか、「やおい」であり「やおい」ではない「やおいを越えたやおい物語」と、そういう批評的な物語になるんじゃないかなぁ。と。そんなふうに思っていた。


――主人公ジェルミは義父グレッグにレイプされ続け、実母はその事実に気づきながらあえて無視し、耐えきれなくなった末にジェルミはグレッグを殺す。ついでに実母も巻添えに。しかしその事実が義兄イアンにばれ、イアンは今までそうだとおもっていた「家族」というものの虚構が壊れテンパり、ジェルミの母に裏切られたことを知り静かにぶっ壊れて男娼にまで身を落とし、方向感覚を見失った二人はしまいにゃ傷つけあうようにセックスしてしまい……。

一般の漫画ならばセンセーショナルだけれど「やおい」としては陳腐というべき物語の骨格や様々な小道具も、だからわたしは納得できた。 陳腐すれすれのやおい的な様々なガジェットを使ってどれだけ現実味のある真に迫った物語を再構成できるか、ということに作者は血道をあげているのだろうと理解できた。 全17巻というボリュームは物語のリアリティーのために費やされたものといってもいいほどであったとおもう。

この物語が「やおい」でないなぁ、と思うところのひとつは物語に登場する人物のだれもが、ざっくりといってしまえば共感できてしまうところにあると思う。不愉快極まりない人物であってもその不愉快さがどういったものであるかというのが、かっちりとわかっちゃうのよ。
どうかしているとしかいいようのないこの物語のすべての元凶であるグレッグにしても、B級ドラマによくある「性欲の化け物」として描写せず、複雑で矛盾した心性をかかえた一個の人格として描写してしまっている。 なので、あらすじを聞くだけだと「なんだこのレディースコミックと大映ドラマを足したようなストーリーは」といいたくなるようなものが実際読むとすべて了解可能な領域にまできちんとほりさげて物語は編まれておもわずひきこまれてしまう。
たいがい「やおい」ってそのへんのリアリテイーをぶっちぎっちゃって「わかる人にだけわかる客観性の欠いた世界」へと暴走するんだけれどもね。それがまったくこの話にはない。

そうした細部をきちっと練りこみ(――芸術といっても過言でない完璧なネームも見どころ)、あくまで客観的にリアリティーが破綻することなく物語は進み、結論があって結論がないそれでもひとつのトンネルは抜けたのかもしれないという純文学的な地点で 物語の終止符を打ち、結果そのボリュームと完成度ゆえに彼女の今までの作家としてのすべてをつめこんだ集大成となった。と。

読めば読むほど「やおい」でありながら「やおい」ではありえない展開にいままで「やおい」と呼ばれていたものの甘え、だらしなさ、ご都合主義……、「やおい」というものがここ10数年で築き上げてきたはずの、しかしながら脆弱でみすぼらしい骨格をやおらーである私は意識せずにいられなかった。 ラスト読み終わった直後「こんな話読んだ日にゃ、もう、安易なやおい――ハーレクインやおいとか、レイプだけれど愛があってハッピーエンドやおいとか、あなたがいるから私は救われた的自己救済やおいなんざ、2度と書けねぇだろ。こりゃもうパイオニアからの最後通牒だな。『やおいよ、お前はもう死んでいる』みたいな」 と私は快哉をおもわず叫んでしまった。
連載当初にわたしの感じた「この作品は『アンチやおい』であり、『やおいを超えたやおい』であり『作品自体がやおい論として成立する批評的な物語』である」という意識は連載終了後なお強まったわけなんだけれども、 どうも「やおい」側からはそうとも受け取られていないような気がするんだよね。
これは気のせい?


そうした私のズレとやおいの方のズレの一例をあげるとすると――。

文庫版最終巻の解説文のやおい小説家山藍紫姫子の「そのときをイアンと過ごせるのは、これはもう、ひとつの幸せのかたち」とか「人生で共犯者を得ること。それも愛のかたち」 なんて解釈なんざ、非常に「やおい」然とした解釈でわたしとしてはどうにも承服しかねるんだよね。

これってそういう話だっけ?と思えてしまう。
こういう解釈って「どんなかたちであろうとも攻めが愛してくれればそれでオッケー」という安易なハーレクイン的やおい観――というか女性側の愛情観そのものに思えてしかたない。
萩尾望都はそういった安易な愛情観に対して「そもそも愛ってそんなに簡単じゃないし、愛=幸せ、パートナー=幸せということ自体疑わしいし、愛って存在自体が不条理で不幸なものかもしれないし。むしろ愛されないほうが無関係であるほうがなんぼか人は幸せであるかもしれないし」とそんなアンチテーゼを投げかけているように私は読み取ったんだけれどもなぁ。 でもこの物語にたいしてこういった山藍紫姫子的な読みこみ――つまり自己が今まで培ってきた「やおい」観に対して批評的でない解釈をするやおらーというのが結構散見されたりしていて、うーむ、と思ったりするのですが。

萩尾望都はセックスも愛も幸福も結論も意味も否定はしないけれども信じてもいない。すべてをただ遠い場所から臨み見ているだけだけ。24年組の描いた「やおい的なもの」というのは、そもそもそういった絶望的な断絶が前提にあって、それをおしてもこの場を立ち去らないものの物語であったような気がわたしはする。 その絶望の深さ、愛という不条理、それでも生きつづける、描き続ける、それが原初の「やおい」にあった本質的な部分だったんじゃないかなぁ。


と、ぐだぐだと思ったりもするが、ともあれ「萩尾望都がいよいよやおい描いているよ」とか「これって全10話でおさまるはなしじゃない?」とか「ジェルミはイアンとできてるからそれでいいんじゃね」とか「なんだよ、この話オチついてないのかよ」という批判とか感想に私はなんだかもによったりするのですよ。 それって違うだろ―――っと。

イアンとジェルミが二人で幸せになってハッピーエンドじゃないから、やおいだったらリアリティー無視、客観性無視で10話くらいで納めるところをなんとか「やおい感性」をもたない人にも了解可能なところまで描きこんでこのボリュームだから、現実がそうであるように、安易にオチをつけなかったから、これは成功しているんだよぅ。と。

結局、「虚無への供物」がアンチミステリーといわれながら「優秀なミステリー」としてミステリーマニアに読まれているように、この「残酷な神が支配する」も「アンチやおい」でありながら、「優秀やおい」としてやおらーに読まれちゃっているっぽい―――そんなわけでこの作品は不思議と「非・やおい」の人のほうがかえって緻密な解釈や批評をしている人が多いような気がする。 ということで、「ほんっっとマニアって馬鹿で鈍感なんだからっっ」とわたしは憤慨するというそんな話なのであった。


それにしても、「B級やおい」と「残酷な神が支配する」の相違点をよくよく研究すると「やおい」というものの本質とか問題点とか、いろいろと見えてきて、ひとつの立派なやおい論が成立すると思うんだけれどもなぁ、だれかやおい論好きの人、やってみません?
――え?わたし、わたしはB級やおいあんまり読んでないし、読んでも速攻忘れるしなぁ……。

2005.04.19
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