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萩尾望都 小レビュー集


 レビューというか、萌えがたりと言うか、そんなのばかりですが……。

◆ あぶな坂 HOTEL
◆ 山へ行く
◆ バルバラ異界
◆ 完全犯罪 〜フェアリー〜
◆ マージナル
◆ レオくん
◆ スフィンクス
◆ 文藝別冊 萩尾望都



cover ◆ あぶな坂 HOTEL (08.03/集英社)
 そうかぁ、中島みゆきの歌った「あぶな坂」ってのは、あれは黄泉比良坂のことだったのか。納得。しかし、長年疑問に思っていた不条理なあの歌の回答を、まさか萩尾望都から知らされるとは。
 この世とあの世の挟間に立つ「あぶな坂 HOTEL」。様々な人々がここにたどり着き、そして旅立っていく――。という萩尾望都の連作形式の最新作。もちろんタイトルの「あぶな坂」は中島みゆきのファーストアルバム「わたしの声が聞こえますか」の一曲目「あぶな坂」から。 ご丁寧に一話目冒頭で「あぶな坂を越えたところにあたしは住んでいる」と、中島みゆきの歌詞をそのまんま引用しているので、これは明らかなオマージュと云いきっていいんじゃないかな。
 ていうか、ホテルの女主人、藤ノ木由良が中島みゆきに見えて仕方ないっ。長い髪をポニテにしててさ、凛として言葉少なでミステリアスでさ。こう、服もいちいち中島みゆきが着そうなものばかりで(――黒いドレスをよく着ているのは歌詞の「わたしの黒い喪服を目印に」を意識してだよね)。ストーリーも「夜会」なんかでやりそうなノリで、元々萩尾望都は非常に舞台的な漫画作りする人だけれども、これはあきらかに夜会だよな、と、思ったり、そもそもこの「HOTEL」ってのも好んで中島みゆきが使う舞台だったりして「ミラージュホテル」なんかもこの作品ににあう歌だよな、と思ったり、つまりは、「是非、中島みゆき主演で映画化していただきたいっ」そんな一品かと。
 作品自体は超鉄板の良質すぎる連作短編。どこに出しても恥ずかしくない世界が誇る日本の萩尾望都です。 わたしが一番好きなのは、第3話「3人のホスト」かな。定期も保険も解約してホスト遊びにのめりこむ自称クララ姫、本名猿渡福子41歳のスイーツ(笑)っぷりが素敵過ぎる。ホント、萩尾センセー、愛すべき馬鹿女を描くのうまいよなぁ。
 それにしても、モー様がみゆきの歌ちゃんと聞いているとはというのはやはり意外。「ふたりとも甲斐よしひろと仲良し」くらいしか繋がりがあるとは思えなかったのにな。
(記・2008.3.21)


cover ◆ 山へ行く (07.07/小学館)
・「山へ行く」

 妻に子供に仕事に、なにひとつ不自由をおくっていないある中年の作家。朝、目覚めて、ふと思う。
 「今日は、山へ行こう」
 山といっても、自転車でいけるそこらの里山だ。それなのに、妻や子供、編集、近所の電気屋などなど、日常の雑事が彼を追いかけ、結局彼は山へ行くことを諦める。
 ――という、それだけの、なにもおこらない短編なのだが、これを読ませてしまう萩尾望都。日常生活とそのなかで生きる人々のリアリティーがハンパでなく、一体どんなおっさん作家ですか? 向田邦子? 今度の萩尾望都は久々の短編連作集になりそうだけれども、こういう「物語にならない物語」っていう、枯淡の境地までおのれの表現領域に入れていきますか。どれだけ天才なんだよ、萩尾望都。

・「宇宙船運転免許証」

 古き良きアナログリリカルSF萌え。読後、嬉々としてストーリーを語ったところ「 なにその藤子・F・不二夫 」といわれた。あ、確かにこれは、Fお得意の「少し不思議」系SF短編だ。
 子供の頃、今は亡き兄と一緒に200円で買った「宇宙船運転免許証」。その運転免許の更新案内の葉書が30年経って届く。どうせなにかの悪ふざけだろう。そう思いつつも、仕事先の近くということで冗談半分で更新事務所へ訪れるが――という「山へ行く」に続くオチなし系激渋大人風味短編。
 「宇宙船なんて今のご時世はやりませんよ、今はドア・ツー・ドアですから」と、事務員が言うのを「ドラえもんの『どこでもドア』ですか」と返すあたり、やっぱり、これは藤子・F・不二夫のリスペクト作品なのかな。
 藤子Fの短編でいうと、「3万3千平米」に一番印象近いかな。ガジェットが「宇宙船運転免許」か「火星の土地」かというだけで、絵空事のSFロマン世界と現実世界がリンクしてしまう感じとか、かなり近い。こういう作品を書く人、なんでいなくなっちゃっだろう、という感慨と、萩尾望都、あなたって人はほんとになんでも描けるのね、という驚きの一編。
(記・2006.4.21)


cover ◆ 萩尾望都 「バルバラ異界」  (全四巻/小学館/03.07〜05.10)
 両親の心臓を食らい、眠りつづける少女、青羽。彼女が見ている夢の世界バルバラ。その夢に飛んだ「夢先案内人」時夫。バルバラというキーワードと多くの謎。
 前作、「残酷な神〜」連載中は次は奇妙なSFを、と言っていた彼女だが、こうくるとは。 テーマは前作と同じく親子葛藤でおサイコなのだろうが、イアンとジェルミの深い意識の中に降りていく前作とくらべ今回は群衆劇。萩尾望都の重いネームに付き合う気力が今の自分にはないなぁと長くつんでおいたのだが、やっぱり面白い。
 今回、やたらと各話のタイトルがポップなんだけど、これが個人的には気に入っている。「眠り姫は眠る血とバラの中」とか「公園で剣舞を踊ってはいけない」とか「六本木で会いましょう」とか。さてさて、このあと、どうなるか――。
(記・2003.09.03)

 「バルバラ異界」全四巻、完結。そして読破っ。
 うわーーーうわーーーうわーーーーーっっ。すごいよーーーっっ。またまたまたまた傑作やんけーー―。めっちゃ感動やんけーー―。萩尾せんせー―っ。ありがとーーー。生きてくれてありがとー―。漫画描いてくれてありがとー――。と、まあ、こんな感じで脳内麻薬でまくりで、まともな文章が書けませんっっ。書けるわけがありませんよ、まったく。
 正味の話、前作「残酷な神が支配する」で、萩尾望都が描くべきものはもう描ききってしまったのでは、って惧れがあって、わたし、あんまり「バルバラ異界」には期待していなかったのね。や、でも、違いました。萩尾先生はまだまだ成長する。描いて解決しなければいけないものがある。まだまだ全然やること残ってる。
 と、まぁ、この作品を読んで色々色々、ほんっとーに色々と思うところはあったんだけれども、ちょっと今のオーバーヒートとした頭では整理できん。時夫パパ激プリやんけ、とか、こんな受け受けしいおっさんありえないっっ、とか、おま、ちょっ、なにいい大人が息子相手にボロボロ泣いたり、息子とのはじめてのお泊りに歯ブラシ片手にジーンとしてるの? とか、俺も時夫の子になって「パパーー、パパーー」って云いたいわ、とか、ってかこれってつまりキリヤ×時夫だよな、とか、そーいうアホなことしか言葉にならん。あったまが色んな方向に(――って主にやおらー方向に)ぐるぐるぐるぐるしてるよぅ。
 でもいつかなんかちゃんとしたテキストをサイトでアップします。っていうか、させてください。あーー、もうとにかくメロメロよ。萩尾先生、愛してます。結婚してください。
(記・2005.10.04)


cover ◆ 萩尾望都「完全犯罪 〜フェアリー〜」  (88.11/小学館)
 さきほど、甲斐バンドの解散ライブに中島みゆきが飛び入り参加してうたった「港からやって来た女」を拝見したんだけれども、エレキにカポつけて颯爽と登場する(笑)カッコいいみゆき様が、萩尾望都の「完全犯罪 〜フェアリー〜」のヒロイン妖子に見えて――って、中島みゆきと甲斐よしひろと萩尾望都に詳しい人でなくては「は ?」という話題でしょうか、これ。
 みゆき様のふわふわ長いスカートにふわふわ白いストールにふわふわの長い髪という30代でこれか、という異様にガーリー( ――だけれどもちょっと蓮っ葉 )な格好がっ、妖子ちゃんだったんですよっっ。マジでっ。――って、そう視線で見ると、甲斐くんが「完全犯罪」の主人公・ルイに見えて――って見えません? 見えるよね。ねっ、ねっ。 そういうことだったのか、萩尾望都。くっそう。
 てわけで、どんだけ萩尾望都の「完全犯罪 〜フェアリー〜」が凄いのか、という話をわたしはしたいのだけれども、なかなか上手くまとまらないっ。

 萩尾望都の「完全犯罪 〜フェアリー〜」ってのはほんと凄い作品でさぁ、この作品にある実験性とか先鋭性とか萩尾望都の愛と熱意とかそんなもろもろがわからない奴は、どんなにそいつが萩尾望都ファンだと公言しても、ぜ〜っっっったいわたしは信じないっっ、って断言しちゃうほどブラボーな傑作なんだけれども、萩尾望都をヒョーロンしちゃうようなお偉い文化人とかサブカルキッズは、まず無視するよねっっ、「完全犯罪」。  きーーっ、こんなに凄いのにぃ。いつか、バリバリ本気全開の「完全犯罪」のレビュー書きたいなぁ。と、思いつつ数年、結局書けていないので、この「完全犯罪」のなにが凄いのか、いま端的に箇条書きすと――。
 ・二次元である紙の上で、四次元まで――時間まで表現しようとしている、っていうこと。
 ・ひとつの物語に対して言葉の流れが多重的・複線的、言葉が層をなしているということ。

 これね。
 でもって、これってのは、萩尾望都にある程度音楽的素養があるから、なんじゃね、とわたしは思ったりするわけで。
 萩尾望都って「完全犯罪」に限らず、タイム感がいいんだよね。読むという行為もまたイコール時間の流れである、という意識が、あるというか。
 作品に心地いいリズムがあって、メロディーのような起伏がある。甲斐よしひろや松本隆など、音楽畑の人と親しいというのもやんぬるかな、と思ったり。ちなみに萩尾望都は「漫画界の中島みゆき」という触れ込みでシンガーソングライターとして79年にレコードデビュー、2枚のアルバムをリリースした経緯があったりする。
 萩尾望都って、たえず先端で実験的で新鮮で若々しいのに不思議と保守的・権威主義的な腰の重いファンが多いんだよね。
 つかさ、額に入れて拝み倒すようなアーティストじゃないんだよ、萩尾望都って。ご本人はシェークスピアも立原道造も野田秀樹も好きだけれども、山藍紫姫子のハードやおいだって大好きだし、「ジャンプ」やら「マガジン」やら少年漫画の発売も毎週楽しみにしているそんなスーパースペシャルナチュラル・ミーハーっ子なんだからさ。メジャー・イナー、新旧、保守革新、正反対にあるものでも関係なしになんでも楽しんじゃう子なんだからさ。そこんとこ、ひとつよろしくしていただきたい。是非。
(記・2007.08.18〜19)


cover ◆ マージナル (全5巻/小学館/86.07〜87.11)
 萩尾望都の作品で完成度とか作品性とかそういう客観的な物差し抜きで個人的に好きな作品―――枕元において何度も読み返しちゃう作品ってなると断然「マージナル」なんだよな、わたしは。
 砂漠でエスニックでSFってだけで充分ツボ。あの布を体に巻きつけてズルズル引きずる服と胸元手首足首のジャラジャラの装飾具だけでもうご飯何杯でもすすんじゃうよみたいな。 でもって、どのキャラクターもツボツボツボ、ここは足ツボマッサージ屋かというくらいに、ここぞという患部にぐぐっと迫ってくる。
 アシジン、馬鹿で元気でかわいい―。額の三日月の傷カッコイイ――。グリンジャ大人で渋くて素敵――、眦の緑の刺青カッコえー―っ。キラもなんだかよくわからんけれども無邪気でぴょんぴょんしててかわえー――っ。ミカル、こいつ媚びキャラ――っっ。メイヤード、わッ、どう見ても塩澤兼人とキャラやーん。エメラダ綺麗で悲惨でカワイソ―っ。でも一所懸命さがすエドモスもカワイソ――っ。ジューシー、ってなんだこのごっつわかりやすいおかまキャラは。 ―――って、もう無駄に萌えまくり。よがりまくり。歓喜の声をあげまくり。もうねこれは事件ですよ。「マージナル」という名の事件ですよ。
 というわけで、なあんかどういうわけか好きなのよね。もう理由なんかわからない、というくらいに好き。
 好きなカップリングはエドモスとエメラダのふたりかな。なんか古典的な「美女と野獣」カップリングって、結構好きなんだよ、俺。「江森三国志」の魏延と孔明とかさ。もうなんかぐぐっとくるのよ。攻の気はやさしくて力持ち具合と、受の融通のきかないかたくなさ具合って、なんか弱いんだよなあ。しかもエメラダ、なんも関係ないのに無駄にまきこまれて最期はかわいそうなことになっちゃうし。
 作者視点的にきっと面白いだろうなぁと思う人物は、やっぱアシジン。運命という名の棒っきれでちょんちょんといちびってやるに1番面白いのはこういう奴だと思う。勝手に動き回ってひとつの問題を色んなところに飛び火させそうなところが、観察したいキャラNo.1て感じ。このキャラ造型はそのまま「残酷な神」のイアンにのりうつって最大限に発揮されておりまする。
(記・2005.04.21)


cover ◆ レオくん (小学館/09.06)
 二本足で歩けるし、人間の言葉も話せる猫さんたち。そんなパラレルワールドを生きる一匹のオス猫「レオくん」の日常を描いた短編連作集。大島弓子+ますむらひろし+藤子F不二雄ともいえるけれども核にあるのは、萩尾イズム。「とっても幸せモトちゃん」とか「あぶない丘の家」とか、時々萩尾さんがトライする「よいこ漫画」の系譜といっていいかな。
 レオくんはなんでもする。小学校にも入学するし、漫画のアシスタントもするし、婚活もするし、ペット雑誌の編集もするし、スターを夢見て「グーグーだって猫である」の撮影現場にだって乗り込んじゃう。
 でもどれもこれもいちいち上手くいかない。学校の先生には行動のいちいちをやんわりと否定されるし、お見合いは連敗街道まっしぐらだし、漫画の原稿は台無しにするし、映画にはエキストラにすら使ってもらえないし、雑誌編集の仕事ではプレッシャーに押し潰れてしまう。
 どうして上手くいかないのだろう。レオくんにはわからない。でも読み手のわたしたちはわかる。だってしょうがないじゃん。レオくん猫だもの。
 世間と自分との間にある些細な、しかし絶対的であるズレ。それをさりげなくも客観的に、かつリアルに切り取って読者に提示する、その筆致の鋭さというのは、やっぱり萩尾望都なのだ。
 「残酷な神が支配する」「バルハラ異界」と、とてつもなくヘビーな作品を連続で10年弱描いていた萩尾さん、今は肩の力を抜いて、軽めのものにトライしたい時期なのだろうけれども、決して手抜きはしないのである。素敵っ。
 しっかし、レオくんのフォルムのリアルな可愛くなさが、しかし読みつづけていくうちに可愛く見えてくるという不思議。ま、でも、うちのネコさんの方がかっわういですがねっ。
(記・2009.06.13)


cover ◆ スフィンクス (小学館 / 2009.12)
 新作。短編集「ここではないどこか」の第二巻。萩尾望都の作品にはじめて「老い」を感じた。
 タイトル作「スフィンクス」と「オイディプス」は、かの有名な「オイディプス王」の物語を萩尾流にアレンジした作品なわけだけれども、いきなりイオカステの自死とオイディプスが自ら目を突き刺すというクライマックスシーンのみを描いた「オイディプス」、今度は冒頭の実父殺しとスフィンクス退治のシーンのみ焦点をあてた「スフィンクス」と、萩尾にしては珍しく「自分の萌えた部分を抜書きした」という印象。
 萩尾世界にとって最も重要である「親殺し」をテーマとした原初の物語としてこれが彼女に引っかかるのはわかるけれども、それを、読者へきちんとアプローチしているようにあまり感じられない。
 そもそもこのふたつは、右手が獣の形をしている黒衣の男の物語「メッセージ」シリーズで、今回もそれぞれ話の脇に彼は出ていて、まぁ、おそらく手塚の「火の鳥」のように、彼は人類の営みを傍観する不死の男なのだろうけれども、そんな彼の特徴の、異形の右手が「スフィンクス」ラストシーンなどで、書き忘れていたりする――萩尾にこういうミスは珍しい、のも気になった。それに、何でこのシリーズで「オイディプス王」をやりたかったのか、必然も作品から感じ取れなかった。
 もっと若い頃の、体力と精神力があり多くの時間が残されていた頃ならば掘り下げていただろう物語が、いまはこう、という、全体的にそんな感じがあるのだ。

 一方の「世界の終わりにたったひとりで」は、今回の傑作で、孤独に生き、孤独に死んだある老画家の物語。
 絵に全てを捧げた彼女の、しかしその生涯には、かなうことのなかった愛と何度かの諦めがあった。世界の果てにうち寄せる波、淡々と広がる寂寞の風景。全てのものどもがなにもない海に帰っていく。その汀で、彼女は幻の男と束の間のタンゴを踊る。主人公の大津ちづの顔は気のせいか、どこか作者・萩尾望都に似ている。「老い」を正面においた作品は彼女では初めてのことだ。
 最近の彼女の作品には短編の軽い作品が多い。萩尾望都の熱烈なファンとしては、まだ萎れて欲しくない、まだ大作が描けるはずだ、と信じているのだが、彼女は作家としての自らを老年期に入ったと、厳しく見ているのかもしれない。
 「青いドア」は家のリフォームに憑りつかれた強迫神経症気味の専業主婦の話。いるいる、こういう無駄に必死な主婦。
 「海の青」は思い込みの強いヒッキー気味文系少女が現実の彼氏を作るまでの話。
 ありがちな女のダメな部分をさらりと書いてミソジニーが漂わないのは、彼女の人徳のなせるわざだろう。他の女性作家ではこうはいかない。
 傑作ではない。が、ハイクオリティーな短編漫画集――だけれども、わたしは萩尾望都にぶん殴られたいし、薙ぎ倒されたいのだ。すげえぇぇぇ、って驚きたいのだ。
 まあ、ファンのわがままだけれども、いつまでも隠居しないでつっぱってて欲しいなあぁぁぁぁ。
(記・2009.12.12)


cover ◆ 文藝別冊 萩尾望都 (河出書房新社 / 2010.05.14)
 40周年記念ということで出版された萩尾望都MOOK。未発表原稿やロングインタビュー、対談、友達作家や関係者、肉親の語る「萩尾望都」などなど、漫画家・萩尾望都の魅力と謎を様々な角度から徹底解剖した一冊。これは買い。萩尾望都自身が制作に深くコミットしているのと、編者が萩尾望都の世界を深く理解しているだろう、実に理想的な研究・考察本であり、かつファンブックになっている。
 萩尾望都っていうのは実に自照性の高い作家で、ファンタジーやSF、海外を舞台にした非現実的な虚構を常に構築しながらも、創作の根本にあるのは常に「自分とその家族」だと、私は思っている。――ので、今回、本人のみならず、実母、実父、実姉、実妹にインタビューを取りつけたのは大金星。
 「ポー」と「トーマ」が商業的に大成功して、個人プロダクションを立ち上げたはいいものの、肉親を役員に据えたところトラブルが多発して大喧嘩、結局会社を解散させて、「メッシュ」や「訪問者」を描くことになって――。といった萩尾望都が作家としてのセカンドステージに到る一連の流れが、具体的・立体的に見えてくる。もちろんここにあるのが全てではないのだけれども、萩尾の一ファンとして腑に落ちるところが、たくさんあったかな、と。これはこういうことだったのかな、っていうね。
 それにしても萩尾ママ、漫画家としてこんなに大成功して、神とも崇められてる――しかもかつて大喧嘩した娘に対して、いまだに「劇作家になって欲しい」とか、いうかね。これがジェネレーションギャップなのか、それとも萩尾ママがとりわけ頑迷なのか。
 そのほかにも、飯能に引っ越したのは光化学スモッグがきっかけってのに時代だなーって感じたり、今まであまり話さなかった少女時代をすごした炭鉱の町・大牟田の話や、見事な汚部屋に仕上がってる仕事部屋の写真に、こんな所も見せちゃうんですかとおののいたり、「感謝しらずの男」の心の病に罹った兄は、実弟がモデルなのかと邪推したり、色々。さらに、三十歳を越えて自分が古い作家になったという自覚やら、デビュー当時の漫画家として成功したいという強い想い、モスクワでの事故で死にかけて、のことなど、実にあけっぴろげに自らを晒している。
 「(――植えつけられた畏れ、タブーによって)開示しきれない自己を物語によってどうにか開示し、自由になる」ことが(「訪問者」以降の)作家・萩尾望都のテーマだとするならば、こうした自己の、素の、卑近な部分まで触れるようになったのは驚きでもあり、ようやくそこまでたどり着いたのかなーと、感慨深く思ったり。例えば「残酷な神〜」「バルバラ異界」以前に、家族にもインタビューをといわれたら、これ、絶対断っていたと思うのよね。自分の中で解決できていない部分だったろうから。実際この本自体、一度ボツになっていた企画だったというし。
 おそらく作家としてふたたびターニングポイントを迎えているだろう彼女の、次のステージに向かうために、今の自分を他人の眼を借りて整理した一冊といっていいかな。今の彼女にとって必要な、まぎれもなく萩尾望都の本、という印象を私は受けた。
 これからの萩尾望都は、団塊の世代の、日本人の、大牟田生まれの、漫画と舞台好きの、家族に問題を抱えた、一女性である自己、みたいな部分がクローズアップされた作品――「ここではない、どこか」シリーズのようなの、をメインにつくっていくんじゃないかなーと、勝手にわたしは予想しつつ、とにかく萩尾ファンは買いなさい、と。
(記・2010.06.12)
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