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萩尾望都の「性」にまつわる2、3の話


  ■「性」をもたない美少年

少女文化的少年愛の世界――いわゆるやおいの世界における「少年」(=性的にパッシブな役割を担う側――その世界でいうところの「受」)の意味合いというのは統一されたイメージがあるように見えて、作者によって様々に微妙に違ったな意味合いをもっているようにみえる。
ある作者にとっては「男性でもあり、女性でもある両性具有」であったり、ある作者にとってはただの「男性の肉体を纏った女性」であったり、ある作者にとってはあくまで「去勢された男性」であったり……。

萩尾望都の描く「少年」というのは「無性」という印象をわたしは持つ。
凹でも凸でもない。あくまでのっぺらぼう。自分のなかにあるはずの性衝動というものがはっきりと見出せず(――あるいはそれは抑圧しているのかもしれないが)、性というモノに対して自分の座標がまったくさだまらない。――男だと見られれば男なのかな、女だと見られれば女なのかな、といつも周囲の視線でふらふらしている。
なのでいつまでたっても他者にたいして対応すべき性を持ちえず、どんな他者とも正常な性交渉が成立しない、という感じがある。(―――このあたりは同期の竹宮恵子の作品と好対照)

であるから、作中で描かれる男性同性愛行為もそれらはほぼすべてにおいて「強姦」として描かれている。
「メッシュ」「マージナル」「残酷な神が支配する」などほぼすべてにおいてそうだ。 その一方、作者は性のない「子供の世界」にある種のユートピアを見出しているように見うけられる。
それらを象徴的している「ポーの一族」「トーマの心臓」など彼女の初期の作品群だ。
――そして中期「メッシュ」以降の作品は「性のないイノセンスなユートピアを性を持つ大人たちが踏み躙る――」こういったニュアンスが漂ってくる。

では彼ら少年達が相手を受け入れ、正常なる性交渉となった時どうなるのか?
彼らはその時「女性」になるのではなかろうか?
「マージナル」でグリンジャを受け入れ女性化したキラのように、あるいは「11人いる!」のタダと結婚し女性になる予定のフロムのように。

彼女の作品において本当の意味で女性が女性たり得るのは、男性を正面から受け入れ、子供をなし育てるための「正しい」性交渉の手続きが済んだ時、ということになる。
それまでの女性は女性であって女性でない。それは性のないなんだかよくわからない男性とも女性ともつかないあやふやな存在にすぎない、という感じが彼女の作品には漂っている。
彼女にとっての「女性」とは「母性」とほぼイコールなのではなかろうか。そんな考えがここからほのみえる。

母でなければ女性ではない。なりえない。
主人公を美少女とした長編「スター・レッド」の失敗(――これは彼女の作品で唯一といっていい失敗作とわたしは思っている)は彼女のこの心性によれば必然だったといえるかもしれない。

ちなみに――。
萩尾望都の漫画における「犯される少年」が、性的成熟以前の女性の形態=少女の擬態の一種であると考えた時、「残酷な神が支配する」のサンドラとジェルミの葛藤は、母娘の葛藤ということになるわけだ。
この物語では母子の葛藤に関しては前面にでてきていないが、地下水脈のように裏側にどろどろしたものがあるのではとわたしは常に感じている。 これを母娘の葛藤と読みかえた時―――それは「イグアナの娘」で描かれた母娘葛藤のバリエーションのひとつなのでは、と考えたりもする。とはいえ、この部分は深く考察したことがないのでなんともよくわからない。


  ■母性たりえない女性

かくなるように「女性」たり得ることにたいして萩尾望都は峻厳な審査を行っている。
ともあれ「ただ女性という肉体の器をえたからわたしは女性なのである」というシンプルさというのは、まったく感じられない。

彼女は「母性を持ち、女性たり得る前の性を持たない少年」を描く一方で「女性になりながら母性を持ちえず落ちこぼれてしまった女性」というのも頻繁に描いている。 これも「かわいそうなママ」以来ずっと引きずっているモチーフにわたしは感じる。
「メッシュ」のマルシェ、「訪問者」のヘラ、「残酷な神を支配する」のサンドラ、「マージナル」のエメラダなどなど。
彼女らは総じて、痩せて美しく、神経の線が細く、心がかたくなで、何歳になってもレースやフリルを愛するような少女趣味を引きずっている。
そして、母になりえなかった彼女たちに対してしばしば作者は悲惨な末路を与えている。――その最たるものがサンドラであろう。

一方、「海のアリア」のコリンとアベルの母、「感謝知らずの男」の看護婦ドーラ、「メッシュ」のミロンの恋人カティなど、 太っていて、気がやさしく、物事に動じず、なんでも「まぁいいんじゃない」とおっとりと物事を受け入れる――往年の京塚昌子のようなおっかさんぶりといえばわかりやすいか、 そういったいかにも「母性」然とした女性像も萩尾望都は書いている。
しかし、彼女らは総じて萩尾望都の物語においては脇役にすぎない。またこれらの人物はどこか作者の通俗的な憧憬を象徴している(――安産型でどしっとしている「かぁちゃん」というのは彼女にしてはあまりにもステロタイプだ)ようなところが見られて、他の人物と比べると内面の厚みがさほど感じられない。


  ■「マージナル」の意味

85〜88年まで連載された萩尾望都のSF大作「マージナル」。
単純にタイトルの意味はそのまま直訳で「不毛」とか「最果て」とか「辺境」とか、そういうものかと思っていた。
女性が存在しない地球。「産む」ということを忘れてしまった「地球」、滅び以外のなんのベクトルもないこの不毛な星―――。
もちろんその意味もあるんだろうけれども、もう一個の意味もあるということについ最近読みなおしていまさら気がついた。
それは「夢の子供」である4人のキラの父親、イワンのモノローグにある(――ものすごく蛇足だが、マッドサイエンティスト、イワンの姿は大人になったジェルミのもうひとつの姿かもしれないと思ったりもする。なんとなくだけれども。親子関係のトラウマであるとか、そこに起因するであろう「無垢」への希求の強さだとか、そのあたりが近いかなと)。


胎児 この不思議な 新しい異物
子宮は 体の中の 異邦部分だ 辺境だ

子宮は辺境。つまりタイトルの「マージナル」とは「子宮」のことでもあるわけだ。

生殖機能が麻痺した不毛な星、地球―――マージナルな場所で眠りにつく地球人。それは母体の子宮に眠る胎児でもあるということだ。 ここでようやくこの作品冒頭のモノローグ「目覚める前に 眠り入れ」の言葉の真の意味がよくわかる。
これは子宮で眠る胎児へのメッセージであり、いよいよ再生せんとする地球へのメッセージでもあるわけだ。 この物語が地球という母体の再生、そのための供儀となった「夢の子供」キラの物語であることを考えれば、よりこの解釈は納得がいく。


萩尾望都の漫画というのは、一見その場その場の直感で作られているようでいて、地下水脈のようにすべてが繋がりあっているから怖い。
有機的で緻密な世界構築力には本当に舌を巻く。


更にもうひとつ、この物語を掘り下げる。
この物語は女性が存在しない地球を舞台として描いている。そこは男性のみで構成された社会だ。 しかしながら、その社会は「色子」という、年少の男を擬似的な女性としてを立てることによって、擬似的な男女社会が形成している。 ここはジェンダーとしての「男女」というのが明確にある世界である。
生物的な性差がなくなっても、制度的な性差はなくならない―――。萩尾望都のこの眼差しがあってはじめてこの物語を太母の再生へと向かわしめているということを忘れてはならない。 「スター・レッド」の失敗はこの時点で克服されたといっていいだろう。

2005.05.08
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