テレビ界で猖獗を極めるグルメ番組――あれは見ていてあまり気分のいいものじゃないね。 テレビタレントっていうのはなにかね、そんなに日々くそ不味いものを食べているのかね、とたずねたくもなるというものだ。 戦後直後の欠食児童が久々のごちそうにありついたかのように目をキラキラさせて大皿に鍋に丼に飛びつき、口にはこぶのを見ると、こちらは可哀想な人を見るような安っぽいヒューマニズムで心がいっぱいになる。 ここで次に来るパターンというのはみっつで「うわーー―ひぇ――、おいしーーー」と歓喜の絶叫をあげるか、 「今、口のなかに春が訪れました」などとわかったのかわからないのか、よくわからないコメントをするか、 「お肉が本当にやわらかくて、それにこの、ソース、これ、深みありますねぇ、これは……」などと、くちゃくちゃ食べながらあきらかに事前に用意していた言葉を必死に話しだす。 これほど食べ物が不味く見える食べかたというのも珍しく、なるほど、田舎芝居とはまさしくこういうものかと、おもわず感心してみてしまうが、これが毎度毎度となるとさすがに呆れを通り越してくる。 弁当箱を"宝石箱や"というなら、そのイクラのひと粒ひと粒に糸でも通してネックレスにでもして首からかけてみたらいかがかね、と皮肉のひとつでもいわずにはいられない。 とはいえ、あの食べ方、どんなうまくで上等のものですら、カップラーメンのようなけったくそにジャンキーなものに見えてくるから不思議だ。 誰がこんな番組を喜んでいるのだろう。きっと日々カップラーメンやコンビニ弁当のような味気ないものしか食べていない、美味い不味いもなにひとつ知らないものが喜んでみているに違いない。 こういう輩というのは、味がわからないくせに、というか、むしろ、味がわからないから、というべきか、 高級でブランドな食べ物や店に飛びつく。雑誌でテレビで紹介されたところにわざわざ行列作って食べに行く。 一日煮こんだ特製スープとか、わかっちゃないくせして、喜んでいただく。頑固店主の食い方の講釈などを頭をたらして拝聴しながらもいただく。 わかっていないから、もちろん店側も客の足元を見て、くそ不味いものを法外な値段で平気で出すようになる。客はくそ不味いものでも"これが本格的な味なのかいな"といって気づかない。 そして「不味いものを出して儲け、不味いものを食って喜ぶ」という素敵な1つの輪が生まれる。が、さすがに有名になりすぎると西原理恵子の「恨シュラン」のような企画でぶったたかれる。 ■ かの内田百關謳カは「牛肉にはうまいのと不味いのと、かたいのと柔かいのと、高いのと安いのがある。みんな別々の関係があって、かたいのが不味いとは決まってゐないし、高いのがうまいとは請合へない」と「御馳走帖」でいっていたが、 美味いものと高いもの、これに相関関係って言うのはまさしくないわけで、高い=美味い、とはならない。ええ、なりませんとも。 しかしながらこういう輩というのは「ひと皿ン万」などと値段に信用し、「最高級ドコドコ産」などと素材のブランドに信用し、テレビや雑誌の評判を信用しながら、自分の舌を信用していない。 これだけの高級品だから、これだけの老舗だから、うまいのだろう。よって、うまい。その結論はゆるがない。阿呆としかいいようがない。 こういうの輩というのはきっと小金を掴んだら假谷崎省吾の自宅のようにギラギラの家を建てるに違いない。ああ、下品はいやだね。 そもそも高いものがうまいものと思っているような人間は舌のセンスを諭吉様にさざけているというもので、自分の舌が感覚がろくなものでないことを表明しているわけで、 金をだしてセンスのなさを買っているのだから、ご愁傷サマというしかない。 だいたいだね、食い物なんてのはだね、うんこの素ですよ。そのうんこの素をなに行列作って、喜び勇んで、胸におし抱くがごとく、いただかなきゃならんのよ。と。 ましてはラーメングルメなど言語道断だ。あんね、ラーメンってのは近所の横丁にあって、ちょっと小腹が減ったから、とか、酔いざましにいっぱい、とか、食事作るのがだるい奥さんが日曜のお昼に出前、とか そういうもんでしょうが。気軽さがあってこそラーメン屋っつう。 それを「行列に並んでも食べたいラーメン」とか、もうわけがわかんない(――しかし「和歌山ラーメン」とか「熊本ラーメン」とかぞくぞくと増殖し続けるご当地ラーメンっていうアレは一体なんかね。しまいには「あざみヶ丘3丁目ラーメン」とか出るんじゃないかね、とこれまた皮肉)。 しかもこんどは、その有名ラーメン店がインスタントラーメン屋とぐるになって「とんぼ屋の本格ラーメン」などといった屋号つきカップ麺などが発売される。理解不能としかいいようがない。 ラーメングルメはお高くいきたいのか、お安くいきたいのか、どっちなのか方向性を是非とも決めていただきたいですな。 ――とはいえ、高級グルメとジャンクフードに二極化して、しかもそれがくそみそ一緒になって、しまいには高級なものもジャンクになってしまうというのが今のグルメの潮流なわけだから、この「屋号つきカップ麺」というのは、ある意味、今のグルメ界を象徴している一品ともいえる。 あ、「○×シェフプロデュース」とかのコンビニ弁当もそういう流れの一つといえるかな。 ■ とにかく、だ。 このグルメブームには「当たり前のものを当たり前にきちっと料理して、おいしくいただく」という部分がすっぽり抜けていると小生思うわけですよ。 あるものを食べる。あるものをできるだけ簡単に、かつうまく料理に仕立てて、食べる。これがない。と。 ま、個々人がみなそうしろとはいわんけれどもさぁ、別にコンビニ弁当みたいな、のぺーっっとした味のものばっか食いちらかしてもいいんですし、あるいは日々、老舗のドコドコ、話題のアノ店と渡り歩いてもいいけれど、 この当たり前ができない人間、当たり前のものを当たり前に作ってきちんといただくこともできない人間が語るグルメなんぞというのは、わたしは、ひとまず信用できないね。 色々おっしゃりますが、じゃあ、あなたの得意料理はなんですか、と伺いたい。 なにも魚沼産コシヒカリでなくっても、10kg2980円の古米でも、きちっと米を磨いで水量をしっかりと守って充分水に浸して、炊きたてのアツアツで食べれば十分美味い。 それがわからない人間が、水が違うとか、この肉のサシが、とか、知ったようなことを語らんでいただきたい。 そういう人間につれていかれた店で本当にうまかったためしなどない。 ■ だいたいトーストに卵にベーコンにサラダにスープという朝の定番陣営だって、安物のそこらにある食材であってもきちんと作ってきちんと摂ればこれほどうまいものはないと思う。 胡瓜やらタマネギやらレタスやら、その日にサラダにしたいものを適宜スライスして――レタスは手でちぎるより包丁で一口大に切ったほうがおいしいような気がする、水に浸す。 スープは粉末のクノールのカップスープでもいいけれども、クリームシチューの素とミルクとコーンクリームの缶詰があればモノの5分で出来るのだから、出来れば作っていきたい。 鍋にコーンクリーム缶をあけて、カンの底に残っている残りは水でゆすいでそれも鍋に入れて、牛乳を目分でドボドボ入れて、コンソメひとかけとシチューの素をふたかけいれて火にかけて煮立つまで、放置。 一方のコンロはフライパンでベーコンをカリカリになるまで炒めて、その間にトーストをオーブンに入れて、ベーコンがいい感じになったら、今度は目玉焼き、わたしは別別でいただきたいのでその時ベーコンどかしちゃうけれども、一緒でもいいよね、 でもって、卵の白味がちょっと白くなったかな、ってところで水をさしてちょっとだけ蒸し焼き。そうこうしている間にスープが沸騰するので、火を止め水と塩と味の素で調節して、オーブンのトーストもとりだして、サラダも水揚げして、ここまででせいぜい10分くらい。 トーストはいちごのジャムやマーマレード、ピーナツバター、メープルシロップなどなどを賑々しくテーブルの上に並べて、小匙ですくってあっちで一口こっちで一口というのもいいけれど、 わたしの好きなのはマーガリンを薄く塗ったところに、パッパッとシナモンシュガーを軽く振ったやつで、ほんのりの甘みと香りが"朝の幸福"って感じで好ましい。 このシナモントーストを1枚にベーコンを卵の白身をサラダをスープとあっちこっちに色んなところに浮気しまくって、堪能。 卵やサラダはマヨネーズでもケチャップでもドレッシングでもなんでもいいけれども、わたしは塩胡椒をパラパラっとだけで充分、朝だしね、あっさりいただきたい。 で、トーストのもう1枚は卵の黄味をえいやってのっけて、がぶりといただくわけですよ。お皿に指先に黄味がたららとなって、ちょっと下品になってもそこは、指をなめなめ、お皿にのこったのはあとで残ったパンの耳ですくいとって美味しくいただく、と。これがまたうまいんだよね。 そう、モノを食べるときってのは、ちょっとぐらい下品でもいいんだよね。スープも熱かったら、えいやっとばかりに角氷ひとつ落として、ぬるくしていただいちゃってかまわない。 あんまり汚らしく食い散らかすのもみっともないけれども、ちょいだらしない方がより美味く感じるわけで、しかつめらしいテーブルマナーなんてのは食い物を不味く食う食い方に過ぎない。 ともあれ、このとろとろと零れ広がる卵の黄味の鮮やかな黄色、これですよ。これこそ朝の食卓ってものっすよ。 あ、残ったパンはちぎってスープに浸して、ちょいパンがゆ風にしちゃうっていうのもいいよなぁ。 スープは時間があればジャガイモやかぼちゃのポタージュもいいけれども、これは朝にはちょっとつらいかな。プラス10分はかかるだろうし。 卵は他にポーチドエッグでも、半熟ゆで卵でも、やわかく炒めたスクランブルエッグでもいい。このへんはバリエーション。 ■ なあんてのを読んでいると、あなたも食べたくなってきたでしょ。 日々の食事をしっかり楽しみ、そのなかで自分なりの味覚の良し悪しを身につけ、それをベースに高級店の「最高級なんたら」を自分なりの解釈で味わうことができる人間こそが本当のグルメだとわたしは思う。 ま、わたしはただひたすら粗食だけをひっそりおいしくいただいている庶民ですが、とはいえ、 高いものを高いからといって喜んでバカ食いするような、心の貧しい下品な似非グルメにだけはなりたくないね。 いくら貧乏でも心まで貧乏になったら終わりでしょ。 ■ なぁんて偉くいつものように、語っているのだが、本当はこんなことを語りたかったわけでなく、 内田百閨u御馳走帖」、森茉莉「貧乏サヴァラン」、伊丹十三「女たちよ」、中島梓「くたばれグルメ」はわたし的には"グルメ本四天王"、オススメです、とか、 萩尾望都の漫画にはなんであんなに食事シーンがいっぱい出てきて、そして食い物がおいしそうなんだろ、とか、 高河ゆんの「アーシアン」って「熱いポタージュは本当に熱いんです」とか「ヒルトンハワイアンビレッジのバナナブレッドと俺が作ったやつ、どっちがうまい?」「ヒルトン!」「俺の料理がまずいというのか」とか 印象的な食事台詞が多いなぁ、とかそういうくだらないことをと思っていたのだが、いつものとおりに話がずれてしまった。 |