このアルバムのジャケットにさりげなくかかれているフランス語。 ――Belle a mourir Belle a croquer Me fait chavirer―― (死すべき美、危機なる美 それは私を驚倒させる) 意訳すると、こんなものだろうか。 ◆ 男を狂わせる「運命の女(ファム・ファタール)」。 豪奢で頽廃的。異国の神秘のベールをけだるくまとい、クラシカルな気品と淫靡さを兼ね備えた女性。 爛れゆく果実のような甘い死の香気と、輝石のような華麗で冷ややかな罪の予感が漂う女性。 破滅の予兆を孕んだ穏やかな湖面のように高貴で危うい、女性。 聖と卑のあわいに立ち、幾たび犯そうとも、けっして犯されざる絶対的な女性。…… それは、ワイルドや、ビアズレ―、モロー、クリムトなどをはじめ、19世紀末以降の、世紀末的な芸術、文学において、幾たびも繰り返させるモチーフである。 (―――ちなみに、わたしが「運命の女」という言葉から一番に想起するのは、ビアズレ―描いたヨカナーンの首を抱くサロメである、といったらベタかな ?) 「TANGO NOIR」や「AL-MAUJ」、「難破船」などを歌う当時の中森明菜の姿から「世紀末芸術の『ファム・ファタール』のよう」と思いをめぐらせることは、そう難しいことではない。 (――そういえば、「AL-MAUJ」を歌う彼女を黒柳徹子は「ザ・ベストテン」で「クレオパトラかサロメのよう」といっていた)。 それは、彼女の身につけていた衣装や歌っていた歌からの想起というもあろう。 が、それだけではない。 クラシカルな気品と淫靡さ、高潔さと脆さ、などなど、二律背反的なものが同居しせめぎあう、中森明菜の存在そのものが、 破滅の美を感じずにはいられない、フラジャイルな、「運命の女」然としたものであった。 当時の中森明菜は、まさしく時代が愛する『運命の女』であった。 ◆ 88年夏に発売されたアルバム「Femme Fatale」。 このアルバムのテーマは「セックス」である。 喩ではない。このアルバムで中森明菜が歌っているのは、セックスの快美、そのものであり、 ここにいるのは、ただひたすら、セックスの快感に溺れ、男を挑発するひとりの女であり、 ここに描かれている愛は、すべてエロスの向こうにある愛である。 性愛の快美を、その奥深き欲望を骨の髄まで楽しみ尽くし、溺れきった先にある愛の歌が、この一枚のアルバムにひしめいている。 熱い情事(ひめごと) 吐息が妙薬(くすり) さらに。 セックスの後、まだ胸の鼓動がおさまらない男の胸に頬を寄せて「まだ聞こえる嵐の予感が素敵」と、後戯そのものな「抱きしめていて」。 どう聞いても挑発、股をひろげて「Move me」と男を誘っているしか解釈できない「Move me」など、詞のいちいちがセックスの最中の描写まんまだ。 しかも、それらは決して品格を失っていない。 クラシカルな高貴さを保った、耽美的な危うい世界――まさしくファムファタルの歌である。 そして、ラストを飾る「Jive」で、ファムファタルたる自己の実存部分まで迫る。――わたしは男をあやつっているのでは、ない。むしろ、私こそが男にあやつられる愚かな女だ、と。 あなたに似合わないくらい 欲しがるのは何故なの 歌で紡がれたさまざまな「運命の女」たちの横顔。それらはすべて、スター中森明菜の姿へ、 さらには「メディアスター」の実存――求められ、愛され、捧げられ、虐げられ、暴かれ、いつしか石もて追われる――すべてにおいて受動ならざるをえない「メディアスター」という偽王の実存へと、重なっていく。 妖しく、危険で、思わず手を触れずにはいられない魔力がありながら、しかし、だから、悲しい。 ◆ このアルバムが、セルフプロデュース開始以降の80年代の中森明菜の、ひとつの集成である、という点も、また見逃せない。 『BITTER&SWEET』以降あらわになった洋楽志向は、全篇海外作家作品、英語歌唱のアルバム『Cross My Palm』で、ひとつの極北を迎える。 そのとき、中森明菜は、自身の洋楽志向の末生まれた作品が、あくまで「擬似洋楽」であることに気づいたのではなかろうか。 そこで明菜は大きく軌道修正する。 このアルバムもまた、海外の作家に作品を依頼し、ロサンゼルスで録音。プレイヤーもすべてロスのミュージシャンに拠っている。 参加ミュージシャンの名を挙げるに、John Lind、Julie Morrison、Nick Wood、Mark Goldenberg、Joey Carbone、Peter Frampton、Michael Thompson、Kim Bulladなどなど、と実に豪華だ。 しかし、このアルバムは、洋楽志向をみせながらも、あくまで日本向けのポップス、「日本のトップシンガー、中森明菜」のポップスである。 サウンドが、日本の当時のポップスターたる中森明菜の魅力を殺ぐ、というところがまるでない。 現に、海外作家に混じって、関根安里、Qumico Fucci、都志見隆といったいつもの面子が参加しているが、そこに違和感はまったくない。 明菜の洋楽志向の着地点、それがこのアルバムといっていいだろう。 その延長線上に「Shaker」「Resonancia」「Destination」というアルバムが並ぶ。 さらに「不思議」以降表出したボーカルの試行錯誤にかんしても、前作『Stock』で、一定の回答を掴んだのを契機に、このアルバムで、さらに発展、飛躍している。 のびやかなハイトーン、つややかなファルセット、なまめいた低音、 時に凄み、時に甘え、時に冷たく突き放し、時にやさしく慰撫し、 猛獣のように鋭い牙を見せたと思った次の瞬間には、仔猫がしなだれかかるような媚態を見せ、と、 声の表情の変化が、実にめまぐるしい。 しかも、それが散漫なバラエティーショーに終わることなく、それらの時々の変化が「Femme Fatale」というひとつのキーワードに、収束している。 アルバムに、一本の線が貫かれていて、どのような振幅があろうとも、その軸からぶれることがない。 88年にリリースした4枚の作品「Stock」「Femme Fatale」「Wonder」「BEST 2」は、 ひとことでいえば、『80年代の中森明菜』のたどり着いたひとつの結論、といっていい。 歌手としてのそれまでのすべての、そして良質のエッセンスが、この四枚のアルバムにはある。 この成果を後に、さらに彼女は変化していく。 そしてそれは、当時のファンやスタッフはもちろん、おそらく中森明菜自身もまったく予想もしない形への変化、で、あった……。 |