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中森明菜 「駅」

まさしく中森明菜の歌

(『CRIMSON』/ 1986.12.24 /ワーナー・パイオニア)


 元々がカバー作品なのに、今ではすっかり中森明菜のオリジナルとして通っている「難破船」や「AL-MAUJ」と対照的に、 「駅」は、中森明菜のオリジナルであるにもかかわらず、後にセルフカバーした竹内まりやによって人口に膾炙されている。
 「駅」収録のアルバム『CRIMSON』は86年リリース当時大ヒットしたにもかかわらず、一般層への中森明菜版の印象は極めて薄い。

 竹内まりや版「駅」は87年アルバム『リクエスト』で、初のセルフカバー。
 その後87年年末に「After Years」のB面に収録されるが、88年のCD化時にA/B面差し替え、 さらに91年には松竹映画「グッバイ・ママ」(脚本・監督:秋元康)の主題歌に起用され再発売し小ヒット(第18位/10.7万枚)、と、まるで出世魚のようにじわじわと世間に浸透していき知名度を得ていった。  竹内まりや盤の「駅」は、きわめて変わったヒット曲である。
 三年越しでミリオンに至ったロングセラーアルバム『リクエスト』の売上をリードしたのが、この曲だったのではなかろうか。



 「駅」。これはさりげない歌だ。
 物語は、こう。

 雨上がりの黄昏のターミナルで昔の恋人を偶然見かける。
 話し掛けようと思った、でもそこまで無邪気になれない。
 隣の車両からわたしは彼の横顔をそっと見つめる。
 不意によみがえるかつての記憶。甘くも苦い痛み。今だからこそわかる真実。
 でもそれは電車が目的の駅に着くまでのほんの数分のこと。
 ラッシュの人ごみにまぎれて彼は帰るべき場所へ帰ってゆく。そしてわたしもまた――。

 この物語、実はドラマらしいドラマはなにも起こっていないのだ。
 ただ電車に乗って、かつての恋人に熱視線を送っている、って絵だけだものね。
 あくまで、かつての恋人の姿に揺れるひとりの女性の内面に終始している。
 ラスト「街にありふれた夜がやってくる」という言葉で括っているところからもわかるように、 この歌で描かれているのはありふれた日常の点景、その中にあるドラマともいえない瑣末なエピソードと、それに伴う繊細な感情の起伏なのだ。
 だからこの曲は、さりげないアレンジとさりげない歌唱で、小品としてまとめたほうが、正しい。
 そのほうが作品の良さがより良く出る。



 だから、最初に竹内まりや盤を聞いた時、わたしは軽く驚いた。
 こんなに大げさなする必要ある歌だっけ、と。
 はっきりいって竹内盤はクサい。
 ストリングスを全面に配したドラマチック過剰な歌謡曲直球のアレンジに、これまたびぃんと張って我の強い歌唱は、 まるで、見ればわかることをいちいち口で説明されているようで、鼻白むものがある。トゥーマッチだ。
 さらに、後にリリースされたベスト盤「Impression」での山下達郎のライナーノートでまた、驚いた。
 原曲は歌謡曲風アレンジで、オリジナルアーティストの解釈がひどい――。この曲はむしろイタリア風――。
 そ、そうなのか……。
 正直言って、私の耳には、竹内盤のアレンジ・歌唱のほうがむしろ、ベタな歌謡曲アレンジ・歌唱で、 確かに泥臭い大衆性は断然にある( だからまあ、竹内盤が受けるのは、わかる )だろうが、曲の持ち味を消して品が悪くなっているように響いたからだ。
 まあ、それぞれの感性の違いといってしまえばそれだけなんだけれどもね。



 誰にもありうるかもしれない、日常の、ドラマにもならない切ないエピソード。 だからこそ、さりげなく――。
 中森明菜盤はまさしくその方向で仕上げている。
 淡々として音数の少ない、抑制の効いたアレンジを椎名和夫は施し、 中森明菜は、日常のエアポケットで内省的に呟くように歌っている。
 さりげなさを装いつつも、しかし明菜は思わず涙混じりになる。
 そこに愛の深さと、それゆえに傷つかずにいられない悲しさが滲み出ている。
 それがこの歌の ( ドラマのない ) ドラマだ。
 明菜はボーカルで詞の行間にドラマを築いている。
 「私だけ 愛していたことを」の部分に、様々な解釈を想起させるのも彼女の表現力のなせるわざであろう。
 詞では描かれていないかつての恋の破局、それがどのようなものだったのか、 その気配が明菜盤ではうっすらと漂っているのだ。

 一方の、竹内盤はというと、 サウンドもボーカルも、堂々と仁王立ちで
 「いま、私、陶酔しています」
 と言わんばかりで、ささやかさのかけらもない。
 そこには誰しもおこりうる悲劇を「私だけの特別」と勘違いしたかのようなあつかましさが垣間見えるばかりで、 ボーカルから喚起されるドラマ性は極めて平板。
 ひたすら恋に陶酔する主人公の姿ばかりがどアップで映し出されるばかりで、広がりも深みもない。 これでは、興が殺がれるというものだ。
 モテない人ほど誰にでもありうるコイバナに異様に盛り上がってヒロインぶるんだよなぁ、とか、つい余計なものを考えてしまう――。
 ともあれ、さりげなくも愛の深く、哀しみの深い明菜版の「駅」と比べると、 それはなんともナルシスティックでひとり上手な愛と響く。



 作り手が作品の最良の表現者であるとは、限らない。
 往々にして当人や身内というのは、近視眼的になっていて、 そのものの本当の良さとか持ち味――どの部分がどのようにいいとか悪いとか、ってのがわかんなくなったりするものでしょ。
 その典型が竹内版の「駅」なのではと、私は感じる。

 竹内版が本来の「駅」だと、いくら作家達自身が主張すれども、 この曲をもっとも的確に表現している、本来のあるべき「駅」の世界は、中森明菜にこそ宿っているのではなかろうか。
 ――と、中森明菜狂の私は、そう思っているのであった。

 とはいえ、86年の『CRIMSON』版の「駅」は、その表現の志向としては正しいが、まだまだこの時点では未完成といわざるを得ない。 近年の明菜の歌唱の「駅」が一番良い。
 ――とはいえ『Utahime D.D』版の「駅」はアレンジが少々竹内版と同じ大袈裟方向のベクトルなのが、ちょっといただけないんだよなぁ……。
 そのなかでもDVD化された97年ツアー『felicidad』のものが最良。 アコースティック・ギターの伴奏による淡々と悲しい「駅」だ。

2007.06.24
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