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松田聖子 「永遠の少女」

11年の、時の残酷

(1999.12.15/マーキュリー/PHCL-1530)

1. 月のしずく 2. ペーパードライバー 3. 哀しみのボート 4. 櫻の園 5. 恋はいつでも95点 6. samui yoru 7. エメラルド海岸 8. カモメの舞う岬 9. 心のキャッチボール 10. 哀しみのボート(Millennium)


 99年作品。 レコード会社とのトラブルの末、個人事務所をたたみ、ソニー時代のディレクター若松宗雄氏の設立したプロダクションGPMに身を寄せた松田聖子の、出直しアルバム。
 88年以来11年ぶりに作詞には、松本隆が復帰――全10曲中8曲を担当している。 他作家は、宮島りつ子、千沢仁、羽場仁志、大村雅朗、島野聡、柴草玲など。 ディレクターはその昔、山口百恵を担当した川瀬泰雄。 90年代の松田聖子ブレーンである小倉良、鳥山雄司の両氏は完全に外れている。
 また再スタートということで、このアルバム発売前後、普段はあまり出ないテレビのバラエティー番組で松田聖子を見る機会が多かった。



 詞は、松本隆のいつもの、映像的でストーリー性の溢れるもので、 冬発売ということもあって、季節は晩秋から早春、場所は冬ざれた海岸や夜更けのバスルーム、ひとりきりの桜並木、小春日和の午後の公園など、ひたひたと孤独を感じるうら寂しく切ないロケーションを丁寧に選んでいる。
 サウンドは、生音重視のやわらかく深みのある丁寧なもので、詞の世界もあいまって、無音を感じる寂寞とした作りである。
 まさしく80年代の彼女の作品のその後を描いた作品集といってもよく、 松本隆最後のプロデュース作品「Citron」から一気にこの作品まで飛んでしまって、まったく問題ない、そういう世界が広がっている。

 松本隆は、このアルバムをやはり「Citron」の続編、という位置づけで詞作したのではなかろうか、わたしは感じる。
「CITRON」の頃のような苛烈な、焼けつくような孤独感ではなく、 身の内からじわじわと染みいでるような孤独。 30代後半の、ひとりのありふれた大人の女性の、日常の隙間に生まれる、ありきたりで平凡なしおれた孤独が、このアルバムでは表現されている。 老いも衰えも、当然のものとして、そこにある。

 タイトルの「永遠の少女」は、パラドキシカルな意味合いをもっているといっていいだろう。
 老いや衰えがひたひたと忍び寄り、もう二度と出会うことのない人や、数々のあやまちや素晴らしい思い出がふと、脳裏によぎる、 自らの人生がどのようなものであるか、その全体像がうすらぼんやりと見えてきはじめたからこそ、 もう若さと未来だけが取り柄のなにもしらない「少女」ではないからこそ、静かに胸のうちに眠る「少女」がはっきりと見えてくる。
 非少女になって、はじめて真の「少女」を知ることができる。 だから――。「少女」は、性別年齢問わずどんな人の心にも眠っていて、それは永遠である。 誰しもが「永遠の少女」である。そういう意味なのだろう、と私は読む。



 かように「CITRON」から一足飛びで同じ種類の、いや、それよりももっと、孤独でしんしんとした作品を提示した松本隆であるが、 しかし、というか、やはり、というか、松田聖子はこの世界をまたしても拒否した。
 このアルバムのわずか半年後にリリースしたアルバム『20th Party』は、自らで作詞し、小倉良や鳥山雄司を従え、といつもの路線に再び戻ってしまう。

確かにこのアルバムは、 松田聖子自身が矜持としているであろう≪90年代の松田聖子≫を完全に無視した、ともいえるわけで (――まぁ、個人的には、べつに「YOU 無視しCHINA YO!!」というところなんだけれども)、 松田聖子としては面白くない作品だったろうなぁ、というのは、想像に難くない。
 「若松さん、松本さん。じゃあ、わたしがひとりでやってきた10年間は認めないっていうわけ?」
 なんていっても不思議じゃない。

 デビュー以来の事務所から独立し、自らのプロデュースに打って出た90年代の松田聖子は、残した作品のクオリティーはともかく、 歌に、ドラマに、CMに、そしてスキャンダルに、マスに飽きられないように次々と自らを露出し、 結果それなりの話題とヒット曲を手にし、まあ、上手くやっていた、といえばやっていたわけだしね。



 このアルバムが、松田聖子が85年に結婚を契機に引退して、そして約15年ぶりに歌手活動を一時的に再開して、のアルバムだとしたら、 きっと美しい後日談的アルバムとして響いたのだろうな、と思う。 しかし、松田聖子も、また変わってしまった。

 松本隆は、きっとこのアルバムでもっとも表現したかったのは「30代後半の女性として孤独に淡々と生きる松田聖子の萎れた美しさ」ではないのかな、とわたし思う。
 どんなに美しい花も、時がたてば、萎れ、枯れ、散る。その萎れの美しさを、表現したかったではないか、と。

  「花無くては、萎れ所無益なり。花の萎れたらんこそ、おもしろけれ」 (風姿花伝)

 枯れてはじめて、その花の美しさは永遠になる。
 少女を失ってはじめて、少女は永遠の少女になる。
 その失われてこそ得る永遠になる美しさを松本隆は表現したかったのだろう。

 しかし、枯れて散る花の美しさではなく、永遠に枯れない散らない造花の美しさを、このときの松田聖子は求めるようになっていた。 タイトルの「永遠の少女」も、ただたんに、「いつまでも10代20代の若々しいビジュアルを維持しているわたし」としてしか、彼女は感じ取っていないように思える。

 だからこのアルバムには、松田聖子の心は、ない。
 いい歌が並んでいるのだが、松田聖子の声は、どこか心ここにあらずという感が否めないのだ。
 傑作といえないのが悲しい、そんな一枚といえる。
 時は残酷だ。


2006.03.03
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