覚書。ある春歌について。 「ぼんぼの子守唄」という歌を私の年代で知っているものがはたしてどれだけいるだろうか。 私は、機会を得て、つい最近この歌を初めて聞いた。 滑らかで聞き心地ののいいポップミュージックが溢れる今という時代に生きる私の耳にそれは鮮やかな印象を残した。 この歌は、なぎら健壱の春歌のみを集めたアルバム『春歌』、さらに、野坂昭如の『不浄理の唄』というアルバムに納められている。大島渚の『日本春歌考』という映画で取り上げられ、また浅川マキも舞台では歌っていたという。 「ぼんぼの子守唄」は数え歌である。 「2つ 舟でする 船頭のぼんぼよ 3つ 道でする道でする 乞食のぼんぼよ 4つ 呼んでする 芸者のぼんぼよ」と続く。 (無粋ながらも説明するが、ちなみに「ぼんぼ」とはセックスのことである) 「全て春歌は民衆の抑圧された声である。労働・生活・愛、これらが意識された時に自ずと歌になった。だからこそ春歌は民衆の歴史である」 これは『日本春歌考』での伊丹十三の言葉である。 春歌は、民謡、わらべ歌と同様のルーツを持つものといっていいだろう。 商品として流通されることを目的とした歌とは違う、大衆文化の地下水脈のようなものをここに感じることができる。 牧歌的なおおらかさと抑圧的閉鎖的な不気味さがそこには同居している。 私は春歌に対して特別専門の知識があるものではない。 春歌の系譜というものが、今どこに流れいるかというのは、よくわからない。 ある部分はアダルトビデオなどの現代のエロ文化に流れたのかもしれないが、それがそのままその系譜の継承と見るにはあまりにも片手落ちの感は否めない。 封建的・農耕民族的などろどろとしたそれでいてどこか清廉な、そういったものがそこにはない。 もしかしたら、この系譜は既に断絶したものなのかもしれない。ともあれ、今答えを出すのはあまりにも早計過ぎる。 ひとまず今は、それを聞き、いわゆる今のポップスの失ったある種の懐かしい風景が見えたという、それだけを防備録として残すことにする。 ちなみに、この系譜をポップスで探すとすれば、80年代前半までの山崎ハコや中島みゆきのような気がする。彼女らが本質的に持っていた呑気な禍禍しさというのはここにルーツがあるのではなかろうか。 |