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中森明菜 「ANNIVERSARY」

明菜のテイク・オフ

(1984.05.01/ワーナーパイオニア/WPCL-415)

1.アサイラム 2.まぶしい二人で 3.イージー 4.夢を見させて… 5.北ウイング 6.100℃バカンス 7.夏はざま 8.メランコリー・フェスタ 9.バレリーナ 10.シャット・アウト


では、失敗作に終わった「エトランゼ」から次の作品「ANNIVERSARY」の話。

端的にいえば「エトランゼ」での失敗とは「聖子・百恵」への安易な急接近にあったと思う。
それは、凌駕しようという気合も、上手くパクってやろうという狡猾さも欠いた、不用意で安易な急接近だった。 ――もちろん「エトランゼ」以前の明菜作品をみるに百恵・聖子を意識したであろう部分というのは散見されるが、それがピークに達したのがここだと私は見ている。
とはいえ、ここで「百恵的なもの・聖子的なもの」に弾かれることによって「テーゼ」→「アンチ・テーゼ」→「ジンテーゼ」の倣いではありないが、明菜(――とそのスタッフ)は自分の位置を見定めるようになったように私には映る。 そのテイク・オフが「北ウイング」と今作『アニバーサリー』ではなかろうか。
ひとまず、明菜全盛期のイメージの最たる海外戦略――異国情緒路線はここから始まっているといっていいだろう。



今回も前作と同じく海外録音盤――バハマはナッソーで録音している。 北ウイングから飛び立った飛行機は、太平洋をまたぎ、ニューヨークを経由して大西洋に浮かぶリゾート地に降り立ったということか。 その要素がどこまで反映しているのかわからないが、この盤は明菜にしては夏らしい、リゾートっぽい歌が並ぶ。

玉置浩二作曲によるラテンのフレーバーの効いたレゲ風の「アサイラム」にはじまり、ジュディ・オングの「魅せられて」バリの華麗なオーケストレーションが地中海のリゾート地の風の「メランコリー・フェスタ」、 「エトランゼ」を挽回を狙ったのか売野―細野コンビによるリゾート・テクノポップ「100℃バカンス」―――これは詞が小泉やシブがき隊のようにふざけている「意図的怪作」、ある意味成功しているといえるかも、アルバム中この曲だけ、浮いているけどね。 さらに海外路線のきっかけとなった「北ウイング」も収録している。 「まぶしい二人で」「夏はざま」の来生兄弟作品も夏の光景を描いていて手堅い。



また、夏らしさ、海外路線の一方で、もうひとつ、彼女をよく表す歌もまた並んでいる。

来生兄弟作品「夏はざま」は、恋人のさりげない態度から恋の終わりに怯える少女の歌といっていい。 時期は梅雨時、夏の予定も決まらない二人、少女は紫陽花の花の色ように男が心変わりするのではと理由もないのに、静かに震えている。

また、尾崎亜美の「バレリーナ」。まるでひとり言のようなピアニッシモの歌い出しから、サビへそしてコーダへとエモーショナルに変化するボーカルがすばらしい佳曲だが、尾崎嬢は明菜がデビュー直前まで10年以上モダンバレエを習っていたことを知っていたのだろう、 尾崎の持ち味である、病弱の少女が窓の外の世界を憧れをもって見ているような――実際明菜も尾崎も幼い頃は病気がちの少女だったんだとか、すりガラスの窓の向こうの世界を夢見るような少女趣味的な歌である。ラスト「ありふれた」の呟きは、真夏の逃げ水のように、儚い。

そしてラストの「シャット・アウト」。
シングルにはない黒っぽいファンキーなツッパリソングなのだが、 明菜は「私のドアはもう開かない あなたの鍵も役に立たない」と歌う。

そしてもひとつ。決定的なのが明菜自作詞の「夢を見させて」である。
臆病な私は 夢見ることを知りません
心から笑うことを知りません
心を打ち明けることを知りません
夢を知らないから
夢と話せないから

臆病な私は 素直な心を知りません
迷路のような人の心の裏がわかるから
恐れずに 今の愛を信じたい
心を閉ざしたあの日を忘れたい
素直になりたいから  自分が悲しいから
夢を見させてください
夢を教えてください


明菜は、人の心の裏がわかるから、素直な心を知らない。心から笑うことも、心を打ち明けることも、知らない。 夢すら知らない、だから夢見ることも知らない。
でも、そんな自分が悲しい。
だから、夢を信じたい。愛を信じたい。素直になって、心を閉ざしたあの日を忘れたい。
だから、愛する人に「夢を見させてください。夢を教えてください」そう、明菜は求めるのである。

詩だな、と思う。
完成度が高いとは思わない。だが、これは明菜の、心の奥底からの切実な希求であり、彼女にとっての真実である。 だから、痛い。

これらの楽曲を通じて見えるのは、 「スローモーション」「セカンド・ラブ」から続くひとつの世界観―― 明菜の自我のありようである。



これらの歌を聞いてひとつ、思い出すエピソードがある。
当時のワーナーの宣伝部員である田中良明氏の「秋元康の世界」という著書に載っていたエピソードだ。
83年、文化放送『ひとつめのさよなら』。収録は上手く進んでいなかった。明菜はラジオのマイクロフォンを前に何もしゃべらず、もくもくとクリップで一人遊びをしていた。
――と、クリップがマイクの磁気に反応してマイクにくっついた。
明菜は「わぁ、クリップにマイクがくっついた」とそこでやっと生き生きとしゃべった。それを番組冒頭に持ってきてプログラムは成功した。という話。

このマイクやカメラの前で器用に自分を出せない、自分が自分であることにいいようのない不安を感じている、俯いて一人遊びすることばかりしてしまう自閉症気味の少女――これが中森明菜の本質であり、これらの歌にも実にそれはよく出ている。
「スローモーション」以来のおとめちっく路線の結実がこのアルバムのもう一方の核である。



「アサイラム」を代表とする夏の海外リゾート的な陽気で開放的な部分と、 「バレリーナ」「夢を見させて」に代表されるひきこもりおとめちっく的な部分が、 このアルバムでは、不思議とさしたる齟齬をみせることなく、融和している。これが面白い。

この矛盾しているといってもいい両面をあわせて齟齬にいたらないのは、それは、この両面がともに「中森明菜」という存在感から生まれたものだからだろう。 だから、このアルバムは、印象が散漫になることなく、アンバランスなバランスを保って、ひとつの世界、ひとつの身体性を獲得している。

ここで自らの世界へテイクオフした明菜は、次作「Possibility」で自らのアイドル時代の良質な部分を総まとめすると、一気に大人のシンガーの階段をかけていくことになる。

2006.01.21


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