原田知世 「雨のプラネタリウム」
1.雨のプラネタリウム 2.赤いパンプス
アーティスト・知世のはじめの一歩 (86.6.21/CBSソニー) |
デビュー当時の原田知世は、歌が下手だった。 とかく歌が下手だと思われがちなアイドルにあっても、それはひときわ目立っていた。 ボイストレーニングのひとつも受けていない、歌手志望でもない14〜15歳の娘が、いきなりオーディションに受かって、そのまんまレコーディングというのだから、それは仕方ないのだろうが、 デビュー曲「悲しいくらいホントの話」をはじめ「時をかける少女」など、まあ、凄かった。 もちろん、その歌唱力のなさ――それでも真摯に丁寧に歌おうと努力する彼女の姿が、アイドル的人気をさらに加速させていったわけではあるのだけれどもね。 であるから、彼女の歌手活動は、自身の主演作品の主題歌だけ、というあくまで女優活動のおまけという位置づけで終わるだろうと、 ファンや周囲のスタッフの誰もが当時はそう思ったのではないだろうか。 まさかそれから25年経ってもまだ歌っている、そういう歌手になるとは、きっと本人含めまわりの誰もがそうは思わなかっただろう。 ◆ それが一転、彼女は85年の「早春物語」で、自身の歌唱法を掴む。 それは予告なしの、突然のメタモルフォーゼだった。 ピッチや声量、そういったところの次元を超えて、彼女は堅牢な歌の世界を作りあげていた。 物語を語るように役を演じるように、歌の世界にさりげなくはいっていく彼女。 彼女の声が、こんなに怜悧で危険な美しさを孕んでいるとは、思いもよらなかった。 歌で自らの世界を築くことの旨みを知った彼女は、女優業を一方に差し置いて、一気に歌手活動を活発化させる。 86年の原田知世は、歌手・原田知世の一年であった。 初のフルアルバム「PAVANE」を前年末にリリースし、初の自身の映画主題歌タイアップからはずれたいシングル「どうしてますか」、 さらに夏には、シングル「雨のプラネタリウム」とアルバム「NEXT DDOR」をリリース。 さらに全国31箇所に及ぶツアーを展開、それをダイジェストしたビデオ「マスカット・リップ」と 写真集「Tomoyo Harada 1st Concert Tour」を年末に発売。さらに同時期、シングル「空に抱かれながら」とアルバム「soshite」を発売する。 その年の彼女の活動の核となったシングルが「雨のプラネタリウム」であった。 ◆ 「雨のプラネタリウム」はトヨタ「ニューカローラ2」のCFソングとしてリリース。 本人出演のCFの大量露出とともに、歌番組にも積極的に出演した。 曲は、当時おにゃん子クラブで全盛を極めていた秋元康・後藤次利の手によるもの。 今までにないハードでスリリングな歌謡ロックに仕上がっていた。 ぐちゃぐちゃしたシンセに、ばきばきチョッパーがいかにもゴツグ、 雨の車内を舞台にした別れの一景、そのセンチメントがいかにも秋元だ。 そんなドメスティックなサウンドが、彼女の冷徹にも感じる乾いて冷えた歌唱と重なると 見事な化学変化を遂げて、不思議な融合を示した。 「雨のプラネタリウム」は、闇夜に光るナイフのような、危険で激しく、冷えた一曲といっていいだろう。 フラジャイルな魅力に溢れている。 ちなみにこの歌、堀ちえみのシングル選考没曲でもある。鮎川誠作品の「Deadend Street Girl」白井良明作品「Wa・ショイ」など、脱アイドルを目指していた 85年当時の堀ちえみの元に届くが、ボツ (――ライブでは何回か堀は歌唱している) 。それが原田知世の元に、という経緯がある。 いかにもクルマのCF風の歌詞に決めうちの発注による作品かと思っていたらさにあらず。意外。 もっとちなみに――、堀の歌唱をわたしは聞いたことがあるが、こちらは原田知世版のような見事な化学変化はおきていなかった。もったりとして泥っぽい想像の範囲内の仕上がり。 原田知世はこの曲をさらに引き立てるために歌番組やライブではクラシックバレエ仕込みのダンスを踊りながら披露した。 ビジュアル・楽曲、すべてが――今まで見たことのない新しい原田知世であった。 この突然の転向は、実に原田知世本人の希望によるものであったという。 彼女は、この時期から楽曲制作に関して積極的に参加、 サウンドプロ―デューサーの後藤次利と何度も話し合いを重ねながらアルバムを作りあげていた、と、後年述懐している。 ◆ ――と、いうわけで、大型のCFタイアップともに原田知世のアーティスト志向を世間に知らしめる一曲となったわけだが、 皮肉にもこのシングルは「時をかける少女」でのブレイク以来ヒットを連発していた彼女にとって初のべストテン・ランクインを逃した作品となってしまった。 彼女のアーティスト志向は世間に受けいられたわけではなかったわけである。 「時をかける少女」から連想されるように、彼女にアイドルとして求められていたのは、 無垢で、けなげで、自我の弱い、アニメのヒロインのような、透明度の高い――( 凡庸な男性にとっていいようにできそうな妄想を掻きたてる ) 少女像である。 彼女のこの唐突な主張はおそらく多くの彼女のファンには異質と映ったのではなかろうか。 もちろん、彼女が自己主張したこと、それだけが違和だったわけではない。 原田知世の後藤次利サウンド時代( 86〜88年 )というのは、彼女の音楽史において、いまだに異質である。 「自分のボーカル特性と相反する音楽をやろうとしていた」と彼女自身が後に語っているように、 後藤次利のサウンドと原田知世のボーカルの相性はあまり良いものではなかった。 (―――というのもあるが、駄作があまりにも多かったというのもあったりする。身も蓋もない話であるが。 アルバム曲に関しては「秋元康・後藤次利」ラインの作品、あんまりにもなのが、正直多すぎた。) しかし、彼女はそれをトライしてみたかったのだろう。 自己表現の楽しみを知ったばかりの者がどこかで一度はやらかしてしまう、若気の至りという奴だ。 そして、そのミスマッチなトライアルによって生まれた偶然の傑作が「雨のプラネタリウム」であることは論を待たない。 この一曲を残したそれのみによって、わたしは原田知世の後藤次利サウンド時代を認める。 アーティスト・原田知世のはじめの一歩として、 彼女の逸る若気が生んだご乱心時代の名曲として、記憶に留めておきたい一曲だ。 ◆ その後の彼女はというと――さらに主張を加速させていく。 87年にはデビュー以来所属していた角川春樹事務所から独立し、個人事務所「ショーンハラダ」を設立、 90年にはレコード会社をフォーライフに移籍、若気の至りからはたと目覚め、「雨のプラネタリウム」で手にした「歌謡ロック」というわかりやすいアイコンすらもここであっさり捨て、さらに踏み込んだ音楽活動へとシフトしていく。 その後は、鈴木慶一、トーレヨハンソンと出会い、彼女は作詞・作曲、編曲までも自らで手がけるようになり、 90年代後半には、セールス的にも一定の成果を得、ミュージシャン・原田知世の世界は確立していくことになる。 |