中森明菜『アルテラシオン』の話をしようと思う。 MCAビクターに移籍してこれまでのアルバムが『アンバランス+バランス』と『歌姫』である。 この2枚のアルバムは『アンバランス+バランス』の回でも述べたように、これは明菜のボーカリストとしての面を強調して制作されたアルバムである。 前者は政治的な兼ね合いで集まった楽曲を歌ったアルバム、後者は明菜のお気に入りの他の歌手のレパートリーからスタッフとの協議との末、選ばれた楽曲を歌ったものである。 それらは、彼女の表現力の基礎力を知るにはうってつけの作品集であるし、彼女のボーカリストとしての更なるトライアルがここからまた始まったといっていいだろう。 しかし、この2枚のアルバムは、今後の長期的な戦略に基づいて作られたのかというとそうではなく、むしろ当時、彼女はこういったアルバムしか作れない事情であったがゆえに生まれた偶然のアルバムなのではなかろうか。 と、私は思う。 まず、自殺未遂事件以降の明菜自身のトラブルもこの時期はまだまだ続いていて、彼女が安定して歌える状況であるといいにくいものであった。―――事実今回取り上げる『アルテラシオン』と前作『歌姫』までの間にも、発売予定のアルバムの中止であるとか、 以前後見人をしていた女性との裁判であるとか、またその女性の書いた暴露本出版であるとか、目立ったものでもこれだけある。 それに、彼女はまだこの時期、人前で歌を歌うということにまだ怯えている部分があった。 これまた、「追想・89〜93年の明菜」のテキストに書いたことであるが、この時期、彼女は徹底してコンサートを拒否している。事件以降、このアルバムのリリースまでに彼女がコンサートを開いたのは、91年、幕張メッセで2日だけ行われたスペシャルライブ『夢』、 94年年末、渋谷パルコ劇場で1週間弱の公演のみだったライブ『歌姫』のみである。 そして、歌番組から出てきたスターである彼女を受け容れるところが、当時もうすでにどこにもなかった。というのもある。 「ザ・ベストテン」も「夜のヒットスタジオ」も彼女のテレビ活動でのホームグラウンドである大型歌番組は彼女の事件に足を合わせるように、視聴率の低迷で終了してしまった。 かのように、どの角度から見てもその立場が危うい、いつ歌い辞めてもおかしくない状況の中森明菜というアーティストで、さて、アルバムを作ろうという時、果たしてどれほどのことが出来るだろうか。 ここでこの2枚のアルバムの共同プロデューサーの川原伸二氏は徹底的に彼女の声に拠ったアルバムをと舵を取るのであるが、これは戦略というよりもほとんど必然としかいいようがない。 選択はこれしかなかったのだろう。 そして、ただひたすら明菜の声の素材のみに焦点を合わせて作られたアルバムが、結果、激烈なまでに孤独で厳しい作品集となった。 『アンバランス・バランス』でいえば自作詞の「光のない万華鏡」「陽炎」はもとより「NORMA JEAN」「黒薔薇」「眠るより泣きたい夜に」。 『歌姫』なら「思秋期」「片思い」「生きがい」「終着駅」「私は風」。 徹底的に孤独な作品がよく、それ以外残らないようなアルバムとなってしまった。 この2枚の彼女はただひたすらに物悲しく、そして救いがない。 そのまま暗闇の中に還って、二度と戻ってこないかのようである。 ライブ『歌姫』のエンデイングのように、繭の中に戻って、もう二度と目覚めないかのようだ。 表現としてはもちろん深いのであるが、これでは、このままでは袋小路である。 結局このままでは彼女は歌い辞めてしまう。 この黒い霧は晴らさなくてはならない。 そこでこのアルバムとなる。 アルテラシオン。「変化」という意味である。 この「変化」とは明菜本人の「変化」への決意というのももちろんであるが、スタッフやファンなど彼女の周囲からの彼女の「変化」への願いという意味とも私には響いてくる。 このアルバムの詞作を見ると大きく2つの方向が見えてくる。 ひとつが「彼女のスキャンダルから想像しうるヒロイン像を敢えて徹底的に書き出す」ということ。 もうひとつが「強いヒロイン像を書き出す」ということ。 つまりは、敢えて彼女のここ数年に起こった悲しい出来事に着目し、そして、それを乗り越え、今では更にもう一つ大きな姿になって戻ってきた、 という結果に響き、そして明菜自身も変わってくれれば、という目的で作られたアルバムなのではなかろうか。 ――ちなみにその「強いヒロイン像」はいわゆる「姐御的強いヒロイン」と「弱さを認めたゆえの強いヒロイン」の2つに大別される。 具体的にどう言うものかというと、先行シングルとなった「原始、女は太陽だった」を見てみればよくわかるだろう。 イントロ。長い砂漠の夜が明け、ゆっくりと大地から太陽が立ち昇ってくる、そんなイメージのストリングスから一変、フラメンコのパルマのような手拍子風の打ちこみが鳴り響き、明菜は歌い出す。 ――確かこの曲は「ネオ・ファンカ・ラティーナ」などと音楽誌などでは紹介されていた。それがどういうジャンルなのかは私はよく知らない。 恋に落ちて私は燃え尽きて 孤独という名の氷河をさまよったこのオープニングの短い歌詞だけで明菜の自殺未遂以降の全てを物語ってしまっている。 恋の果て燃え尽き、全てを失い、そしてまだ不幸な運命は私を手招いている、と。 太陽が昇る 裸の胸に いま哀しみさえ 生きる力にかえてくだが、もう、今は違うのだ。夜は明けた。太陽の光に照らされて哀しみさえ生きる力だ。だからこう言おう。 誰・誰・誰・誰も 恨んでないわ 歌詞は更に「弱ささえ受け止めた私がいる」「女に生まれて私きっとよかった」とまで言いきる。 一度、自らの命を絶とうとした女性が、それを歌うのである。 明菜がこの歌を出した当時、本当に「誰も恨んでいない」と思っていたのかはわからない。 もしかしたら恨み言だらけだったかもしれないし、哀しみは哀しみのままだと思っていたかもしれない。 ただ、こうした歌を選び、彼女に提出した作詞家を含めスタッフの明菜に対する愛情というものを感じずにはいられない。 もちろん、明菜とスタッフの話し合いの末、こうした歌を選んだということは彼女の中で何か過去を糧に新しく、強く、なり変わりたいという意志のようなものが幾ばくかはあったというのも確かだろう。 「スキャンダル」的な傾向がもっとも強い歌は「したたる情熱」と「痛い恋をした」であろう。 共に「原始、女は太陽だった」の作詞である及川眠子氏の手によるもので、ここに描かれている狂気すれすれの一途な愛情―――まぁ、ストーカー的といえば一番わかりやすいかな、というのは、ちょうどカードの表と裏のようなものである。 この違いは愛がそのまま凶器となって破滅へと到らしめるのか、愛が昇華し、慈母的なものへと転ずるのかの違いである。 「したたる情熱」とはなにか、それは、わが身を流れる赤い血である。
今から十数年前、恋人の家のバスルームで流した明菜の血もこの歌のように鮮やかな真紅であったろう。 更に2番では「憎めばいいわ あなたの心に私の愛がこびりついて消せないほど」とまで歌ってしまう。業が深過ぎ。 そんな情熱的な過去の恋を「痛い恋」といって、古傷をいとおしむように歌うのが「痛い恋をした」である。 別れた彼を忘れられず、今でも占いのページを見ると彼の星座に目が行ってしまう。 あなたは幸せなの。呟くと胸がきしむ。という歌だ。 情念の果ての果て、あらゆる煩悩が抜けきって、ただ幸せであれ、と静かに祈る姿だけが残るのである。 しかし、 儚くて だけどこの心に永遠に残る恋をしたというのは、真実だけにちょっと救いがない言葉だよなぁ。 逢えないからずっと愛しいまま、なんて。 強さをよく示す歌に着目すると、バリバリに強い姐御的な歌というのはやはり以前の「十戒」などでの失敗のように、ドスの効かせ方が逆に雑に聞こえたりして、ちょっと落ちる。 「だからなんなの」の「だからなんなの」とか、「TURAI・TURAI」の「あなたってホント やってくれるわ」であるとか、「GAIA」の「誰のこともあなた愛してないでしょ」とか、 歌詞の叩き付け方といい、実に「遅れてきた売野・ツッパリソング」という感じで、それはそれで趣もあるのだが、この強さというのはこの時の明菜の風合いとは微妙に違う。 一方、弱さ、儚さゆえに強くあろうとする歌というのはここで初めて出る傾向の歌であって、ここがやはり光っている。 シングル「原始、女は太陽だった」はもちろん、「無垢」「Necessary」などがそうだろう。 風の音が一番怖い女にいつかなったこの路線上にある歌で、特に私がこのアルバムで一番愛するのが「Sunflower」である。 独りきりで過ごした長い日々を話せば「嘘でしょう?」とあなたは笑うはず 恋唄歌いの明菜の声には花が開く時のような華やかさがある。 そんな明菜に「私は恋の花」といわせた作詞家の只野菜摘はなかなかだな、というもまず、ある。 が、なによりも解放的なこの路線の果てに最新作『I Hope So』などのやさしい歌達があるように私には感じるゆえにこの曲を推すのである。 系譜でいうと、「月は青く」〜「雨の日は人魚」「YOUR BIRTHDAY」〜『I Hope So』という感じか。 甘くやさしく、相手を受け入る包容力も見せつつも、そこには強さの裏付けがある。 この弱さを知ったやさしい強さ、それはバリバリとあらゆるものを咀嚼するような強さでなく、風や水のようなたおやかな強さである。 そしてこの歌が「哀しい呪文はここで終わる」という言葉閉じられているのも象徴的だ。 「終わった」わけではない。「終わる」。ここには予言と意志の両方がある。 終わらせたい。終わりにしなければいけない。だから終わるはずだ。その切なる思いがここにある。 そしてその終わらせなければならない「哀しい呪文」とは。 過去の恋の歴史でもあろう、家族との不和、今までの仕事上のトラブルでもあろう。 仲違いし、すれ違ってしまった全ての人々、うまくいかなかった全ての出来事。その全てとその記憶と大きく解釈するのが、一番なのかもしれない。 それは静かな自己解放であり、そして、自分を許す、その果てに、聞く者さえも許しているように、私には響いてくる。 と、相変わらずべた褒めモードであるのだが、ではこのアルバム音楽的にどうか、というと、実のところ私は明菜の諸作の中ではそんなに好きではない。 ジャケットはモロッコで撮影したという、砂漠に黒いドレスで風を受けて仰け反っている明菜嬢ということで、このジャケットのように、そっち方面のつまりは砂漠っぽいエスニックっぽい音の曲でまとまっているかというとそうでもない。 「原始、女は太陽だった」「したたる情熱」などはそっちっぽい音だけれど、あとはまったくと言っていいほど無関係。 オープニング「GAIA」はサーフロックだし、「だからなんなの」はへビメタ風だし、「痛い恋をした」「Necessary」は純然たるバラードで、とまったく色とりどり。 各曲の音のつくりも「いわゆるポップスです」といわんばかりのが多く、あともうひとつの何か、サムシングが足りないように思える。 声もあまり調子がいいとは思えない。めずらしく自分の響く声をちょっと掴み損ねているようにも聞こえる。 つまり、感想としては、まとまりないし、声もびみょ―なんじゃね――の。である。 ただ、このアルバムは、長く彼女を苦しめたであろう自殺未遂事件以降のバタバタにケリをつけるためには出さなくてはならない通過儀礼のようなアルバムであったと思うので、 全体の作品レベルうんぬんいうのもなんだかなぁ―――と、私は感じる。 それに事件を総括したゆえに見えてくる新しい境地も生まれたわけだし、実際その後『VAMP』『Shaker』とトントンと傑作が出たわけだし(ま、その後ガウスに移って足元掬われますが……)。 まあ、このアルバムは精進落としみたいなもんだ。 |
2003.12.28