「小説家における文体とは世界解釈の意志であり、鍵なのである」(『永遠の旅人』)という言葉は三島由紀夫の有名な言葉である。 (―――ちなみにこの前段には「(川端康成は)つひに文体を持たぬ作家である」と書かれていることはあまりにも有名である。) ひるがっえてこれをわたしの中森明菜論に援用するとするならこういえる。 中森明菜という歌手は独自の文体を持った歌手である。その文体からは彼女独自の解釈による「世界」が垣間見える。 わたしが中森明菜という歌手に惹かれ、彼女に対して「ただの歌の上手い歌手」であったり「製作者の指示された内容とおりのイメージを再現する優秀な歌手」という以上の認識をわたしが持っている大きな理由の一つがここにある。 では、作詞や作曲といった目に見える「文体」を持たない、あくまで歌手でしかない彼女の「文体」とは具体的に一体なにか、と問われるとこれがなかなか悩ましい。 それはひとことでいえば「歌唱法」というところなのだろうが、それは独自の音階やリズム感、節回しに奇妙な癖があるというような単純なものではない。 一例をあげる。 オーディション番組「スター誕生」に出場した16歳の中森明菜の歌を聞いて審査員の阿久悠は「僕のイメージするところと全然違うところに歌を持っていくね」といったという。 ―――ちなみにその時、都倉俊一は「キミはこのオーディション三度目ていうけれど、その前の時『ボクはいましたか』」と訊ねたという。一瞬返事に困る明菜に、こんないい娘をまさか自分が落とすはずがないといった口調で「きっとボクはいなかったでしょうね」と都倉は返したという。 もちろん都倉は以前落選した時も審査員席にいた。いかにも自信家で気障な彼らしいなと思う。 トップクラスのプロの作家であり、とりわけ想像力の触手を広げることは得意である彼らをもってしても掴まえることが出来ない、向こうへあらぬところへと歌を運んでしまうこの能力。 これこそが彼女のみが持つ独自の「文体」である、と思う。 しかし、この彼女の表現能力は彼女自身がそれに無自覚であるようなところがあって、ゆえにいまだ未完成であり、聞く者にもその全体像は茫洋として把握できない。 わたしが再三提示している「恋愛至上主義者としての中森明菜」であるとか「性愛の中へ繭ごもりする中森明菜」であるとか「雨ざらしのレプリカントに訪れた恋のゆらぎとしての中森明菜」とか「性愛の果て宗教的彼岸に立つ中森明菜」 といった彼女の存在論的仮説はまさしく今だ全体がくっきりと見えない彼女の「文体」にまつわる言説である。 わたしは彼女が自らの体で感じた「世界」を歌で把握し、歌で再構築しようとしているように見えてならない。 であるから、わたしは平岡正明がそう見ているように彼女を芸術家としてみている。 |