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明菜よもやま話 その6 「無茶」


ぼーっっとライブビデオ『I hope so』を見ていた。
このビデオ、「マリオネット」以降の「第3部」はファンサイト各所で褒められている通りいいのだけれども、ニューアルバムから歌った「第1部」も私は結構好きで、 特に「うつつの花」、肩を怒らせて、腰を踏ん張って、喉の筋肉ぴくぴく状態で、無理強いで声を響かせているのを「無茶してんなぁーー、明菜」と思いながら何度も見てしまう。
と、「こういうスタイルでしかもう声を出せないのかなぁ」と一瞬不安になる、私。
そういえば昔ってどんな感じで歌ってたっけ、と、過去の明菜VTRを見ると、…………あれ、あんまり変わっていない!??
ということに気づいてしまった。

例えば最近、98年コンサートの「帰省」。その場で座りこみ、髪を振り乱し、身を捩り苦悶の表情を浮かべながら、絶唱していた。
ちょっと前の、94年クリスマスの「夜ヒットスペシャル」。「ミ・アモーレ〜ラ・ボエーム〜Rose Bud〜TATTOO」のメドレーで、ちょうど同年にあった歌姫コンサートのショートバージョンのような構成ですばらしい出来だったのだが、最後の「TATTOO」歌唱後、明菜は苦しそうにその場にかがみこんでしまった。
またもうひとつ、もっと若かりし「北ウイング」の頃。頭サビの「不思議な力で」の部分のロングトーンが話題になると、まるで意地のように明菜は「いつもよりも多めに伸ばしています」状態で伸ばしまくって歌番組で歌うようになった。

そう。よく見てみたら、中森明菜、昔から無茶な歌い方が大好きな歌手だったのである。

「自分の力が100だとしても、自分に120の力を求めてしまう」
たしか、こんな類の発言を明菜はトーク番組でしていたと私は記憶している。
自分のキャパシティーを超えたパワーを常に自分に求める、そのために必要以上の負荷を自らにかける。中森明菜は端的にいえばマゾヒスティクな歌手といえる。
そして、そんな無茶をしている明菜の姿は何故か見るものを惹きつけるのである。
ひとまず私は目が離せない。

私が1番好きな無茶しちゃった明菜は88年8月「ミュージック・ステーション」での「夢のふち」歌唱の明菜である。
明菜の歌唱力最安定期の歌唱なのであるが、であるにもかかわらず、かなり無茶をしている。
普通に歌っても充分の声量と歌唱力を兼ね備えている時期であるにもかかわらず、それでも、からだいっぱい力いっぱいで歌ってしまう明菜。
肩を振るわせ、喉にちからを入れまくり、長い髪を振り乱し、4分半をまるで全力疾走するかのように明菜は歌う。
間奏では思わず肩を上下させ、セーゼー息をついている。
そのせいか、後半になると微妙に歌がよれてしまうし、息の続くぎりぎりのところで歌っているなというのがまるわかりの歌唱になってしまう。

これが、声楽的に正しくない、喉を傷める悪い歌い方だというのは充分過ぎるほどわかるし、結局歌が乱れているじゃない、といわれればそのとおりだと思う。
が、こうして歌っている明菜の魅力的なことといったら。
全身を傷めつけるかのように、身を削って歌う時、彼女はどうしようもなく光るのである。
これは宿命なのだから仕方ない。

だから、私は、明菜を見ていると、時折、妙な罪悪感を抱いてしまう。

彼女に対して「幸せになって欲しい」と思っている裏側で「もっと不幸になって、もっと身を削って欲しい。もっと人に見せてはいけないものをこの場に曝しだして欲しい」という想いを密かに抱いている、ということに自ら気づかされてしまうからだ。


2004.04.10


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