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2005年 年頭のぼやき

「暦」と「現実性」と「やおい」



  ――今が何年何月何日だってなんでわかるんだよ――


周囲は大晦日だ正月だといっているが、365日ずっと今日が何日かをしっかり確認して活動しているわけではないわたしは、 誰にもあわず、ネットにもつながず、テレビもつけなければ、本当に今日が正月であることなんて、わかりっこない。
それを外からの何らかのインフォメーションで知るわけだが、とはいえ 行動範囲がネズミほどしかない私、もしかしたら会う人、テレビ、ネット、その全てが私を騙すために壮大な「どっきり」を仕組んでいるかもしれないと被害妄想的に疑うことだってできるわけで、 と細かく疑い出したら、今日が正月であるかどうかということが確信にまで到達するというのはなかなか難しくなる。ある意味信教などと同じ、信じるか信じないかの世界といえるわけである。極論だけれどね。
現に旧暦で動いていれば今日は11月21日、なんてこたない平凡な日にすぎない。

また今年が西暦2005年だというけれども、これにしたって本当にキリストが生まれて2005年なのか、2005年生きてきっちり数えた人なんて一人もいないのにどうしてそんなこといえるのよ、 と疑うことは容易だ。
「西暦」は6世紀のローマの神学者、ディオニュシウス・エクシグウスが作った暦だというが、当時にして既に500年以上前の曖昧な事実をどうやって調べたよ、といいたくなるし、そもそも史料をひっくり返すと キリストは西暦でいえば紀元前4年以前に生まれていなければならないという計算になるという。なんだそりゃ。キリストが生まれた年が紀元1年じゃねぇのかよ。

だいたい私たちの時代から見れば確証に足るデータなどほとんどない神話といってもいいほどの遠い昔の時代から、現代までを同じ時間軸で捉えるというのが土台無茶な話だ。すくなくともキリスト教というファンタジーの外にいる私からしてみたらナンセンス以外なにものでもない。
暦などというのは今が何年の何日だろうとどうでもいいけれども、ただ何年何日とみんなで決めたほうが色々と都合がいいからひとまず今日を西暦2005年の1月1日ということにしておきましょうよ、というその程度の、時代と場所の限定された「きわめて軽い取り決め」に過ぎないと思う。
厳然としてあるようにみえる「西暦」という暦だって、根拠からいったら今はほとんど使われない「皇紀」とどっこいどっこい、時と場合があったら廃れてしまうかもしれないものにすぎない。
それを下2桁の数が多くなると「世紀末」だ、それが繰り上がると「ミレニアム」だ、などと言い出すのは馬鹿にもほどがある。
みずからが便宜上で作った共同幻想に振りまわされて、どうするよ。


   ――わたし達は本当に現実を見ることが出来るのだろうか?――


と、こうやってぼやきまくっている私を見て今年も相変わらずだな、と読者の方が思っているであろう、ということはおいといてだ。

しかし、世の中というのは、こういう「軽い取り決め」が驚くほど多い。
そして、わたし達はその「軽い取り決め」を当たり前として、けっしてゆらぐことがない厳然としてあるものとして、捉えすぎているような気がする。

わたし達は巨大な芋虫を電車に見ているだけかもしれないし、巨大な烏賊の干物をレースのカーテンだといいはっているだけかもしれない。恋人とくちづけを交わしているつもりが、実はオコゼのような顔のゴキブリの羽飾りを髪につけた、不定形で溶けかけたドブの匂いのする異星人と愛を語っているのかもしれない。
私たちが普通だ、常識だ、当然だと思っていることはもしかしたら本当はとんでもなくグロテスクで不気味で忌避すべきものなのかもしれない。
でも、わたしたちは本当の姿なんて永遠にわからない。もしかしたらオコゼのような顔の異星人かもしれないが、それが私にとって美しい恋人であるならば、優しくくちづけするだろう。悲惨なことも常識だと誰もが認めるなら知らずそれを遂行するだろう。
―――と、カフカの「変身」的にいよいよぐちゃぐちゃとなってきたな。


確固たる現実はない。現実であると信じきっているものそのどれもが「みんなできめたお約束」であったり、自然の偶然の一致で成立しているものに過ぎない。だから、それは脆く、いつ壊れてもおかしくない。
歴史も科学も煎じ詰めていくと、思索的、哲学的(――悪くいえば妄想的)になるのを見ればわかるように、本当のことなんてよくわからないし、そもそも100年ちょっと生きれば上等のヒトなんて生き物にわかるはずないのだ。
結局はヒトはあらゆる事象を信じるか、信じないか、で区分けして、「自分の信じている世界」だけで生きているにすぎず、そこから抜け出せることは出来ない生き物なのだ、と私は思っている。

そう思っている私だからこそ、「SF」だったり、「やおい」が好きなんじゃないかなぁ、と思う。


 ――現実性を袈裟懸けする「やおい」と「SF」――


「SF」が一種のシュミレーションであり、現実の「IF」を描くことから現代の見えざる別の断面を照射するジャンルである、ということはいまさら多く語る必要のない自明のことだけれども、「やおい」もまたそういった作用があると私は思っている。
それは「カップリング」話などにみられるあらかじめ提示されている物語・データの「読みかえ」部分に顕著に見られる。「やおい」は確固たる現実だと思っている姿、1つだと思っている物語を、それぞれの作者自身の妄想とすり合わせることによって巧妙に読み替え、作りかえ、 千差万別の個々の物語へと拡散させていく作用があるように見える。 そこにただひとつと思われている「みんなが信じている現実」へのアジテートという意味合いを強く私は感じる。

「やおい」も「SF」も不定形のこの世界をどのような形で再解釈し、組み立てるかという「物差し」という役割を果てしているわけだ。そしてそれは現実性を異化する作用がある。そういえば「SF」と「やおい」というのはSF大会でやおい論が語られるほど元々親和性が高いものでもあるしね。

そんなこんな思っている私だから、邪馬台国論争の「大和説」対「九州説」にしても、恐竜絶滅論争の「隕石落下説」対「大火山爆発説」にしても、こういったたぐいの学術的にみえて今現在にそのものがないので妄想で補完するしかない論争のどれもが馬鹿馬鹿しく感じてしかたない。
今まで学んできていたこと、あるいはそうだと思いこんできた現実が確固たるものだと思いこんでいる幸せな人は容易く勝つか負けるかイエスかノーかの二元論的論争をするが、 わたしはそうしたもの全てをアニパロのカップリングの論争のような「妄想」対「妄想」の無駄な論争に過ぎないように見えて仕方ない。
つまりは「キャプテン翼」アニパロの「健×小次」対「小次×健」カップリング論争みたいなものだ。
「やおい」を知っている人は「妄想」に対して良くも悪くも敏感だ。しかし、こういう一見学術的な論争をする人はそのことに無自覚なので始末が悪い。

本当に頭のいい人、ホンモノの学者さんは、安易なデータのみによる妄想のバイアスのかかった論争はしないし、だから二元論的単純な論争にも加わらない。 ひとつひとつの事実を事実としてそのまま受けとめ、その事実の蓄積だけをだまって重ねる。
「君子、怪力乱神を語らず」である。わからないこと確信が持てないことは、安易に語るべきではない、それを良くわかっている。

え?私は?
私にみたいなやおらーは妄想補完だと百も承知で、妄想をただ漏れさせるに決まってますってば。って私のテキストなんてみんなそんなもんでしょ。
「妄想を妄想だと見抜ける人でないとまこりんのテキストを楽しむのは難しい」なそんなサイトですから。


2005.01.01
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