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私にとって衝撃的だった10枚と10冊


プロフィール代わりにどういったものをいままで私が親しんできたのか、自分が深く影響を受けたものを小説・漫画で10タイトル、音楽で10枚選んでみました。
まあ、軽いおしゃべりによる自分語りみたいなもんです。今まで取り上げてなかった方も多いので、もしかしたら意外かもしれないなぁ。


■ 中森明菜 『Stock』 (1988/ワーナー・パイオニア)

私にとっての永遠の歌姫。確か自殺未遂事件を起こして休業中の頃にはじめて聞いた。それまでも彼女のファンといっていいほどのシンパだったけれども、このアルバムで完全にやられた。うわっっ、こんなアーティスティックで奥深い歌手だってなんてと、思わず襟を正してしまった。 アイドルあがりということで歌手としての評価に色眼鏡がかけられがちだけれども、彼女を「アイドル」という範疇で語るのはあまりにも愚かしいということをこのアルバムを聞けばわかるんじゃないかな。このアルバムは例えば吉田美奈子さんの作品とかと比較して意味があるような作品に思う。 プライベートは今でもなにかと大変だけれど、以後も『Shaker』や『Resonancia』など、思わず飲みこまれるような本当にいい作品を作っている。いつまでも輝いて欲しい歌手ですね。


■ 中島みゆき 『EAST ASIA』 (1992/ポニーキャニオン)

元々中島みゆきは聞いていて、彼女のラジオの番組に葉書の投稿なんかしていて。で、その時期はちょっと中島さんはセールス的におちこんでいた時期でさ、まず中学生がファンになるって感じじゃなかったのね。友達に言っても「え、中島みゆきって誰??」なんて。 で「工藤静香の『黄砂に吹かれて』作った人だよ」なんつーと理解してくれるんだけれど。
ま、そんなこんなの中島さんがこの時期「浅い眠り」で久々の大ヒットを飛ばして、やっと中坊レベルでも名前が知れ渡るようになって、わたしは中島みゆきのアルバムを意気揚揚と友達に貸していたりしていたのね。で、これはそんな時期に出たアルバム。オープニングの「EAST ASIA」でいきなりはったおされたような感覚になり、ラストの「二隻の舟」と「糸」で涙涙の嵐。
もう、パブロフの犬のように何回もリピートして何回も泣いてるの。ひと月ぐらい頭の中でずうっと「二隻の舟」がぐるぐる。今考えるとどうかと思うよね、そんな15歳。もし今そんな子が身近に居たなら「なにかあったの」と訊ねたいし。でも、今聞いてもやっぱり名曲。「二隻の舟」は彼女の金字塔だと思う。 そういえば友達に貸したらジャケットが水に濡れてボヨボヨになってて喧嘩になったことあるなあ。
こっから先みゆきさんはなんだかいい人になっちゃってどんどん面白くなくなっちゃうんだけれども、そういった意味でも一つの節目だったのかな。


■ 谷山浩子 『歪んだ王国』 (1992/ポニーキャニオン)

谷山浩子を聞くようになって初めて発売日買いしたのがこれかな。夢の向こうに夢がありそのまた向こうに夢があるという「夢の無限地獄の世界」。またはいつまでたっても夜が明けない世界。このいつまでも続く華やかな悪夢の不気味さが当時の私にはたまらなく心地よかった。 今改めて聞いても谷山らしい無気味さ妖しさが1番出ているアルバムだと思う。闇の美学というか、黒魔術的というか、ゴシックロマンというか。「王国」にはじまり「Elfin」、「悲しみの時計少女」、「時計館の殺人」と重量級の曲がずらっと並んでいる。 ちょうどその頃のわたしは彼女と平行して中島みゆきを聞いていたわけで、つまり当時のわたしはこういうおどろおどろしい世界を欲していたのかなぁ。
確か梅雨の時期のリリースで、雨降りの薄暗い午後にこのアルバムをかけながらお茶をすすったり本を読んだりするのがたまらなく快感だったな。このアルバムで完全に谷山信者となったわたしは友人に谷山を薦めまくりで数人をこの道に引きずりこむのだった。


■ Cocco 『ブーゲンビリア』 (1997/ビクター)

ちょうど大学生の頃で「家族」というモノに拘泥していた時期に出会ったのが彼女の歌だった。彼女のアダルトチルドレン的なトラウマのあり方に強く惹かれてしまった。彼女は「家族」というモノに傷つけられて育ったんだなぁ、となんとはなしに歌から感じた。
彼女はきわめて私小説的な歌手で、彼女の歌は全てドキュメンタリーだと思う。例えば中森明菜や中島みゆきであればフィクショナルな装いを纏って作品に昇華するところを、彼女は敢えて生のままでぶつけているようにみえた。 彼女の歌うの猟奇的でインモラルな世界すらも、これは彼女にとっての事実なんだろうなぁ、と当時の受け取っていたし、今でもそう思っている。
彼女の魅力はホラームービーのような不気味さグロテスクさの向こうに、透明で美しい泣きたくなるほどの純度の高い愛の姿があるところだと思う。 そういった「グロさ」とそれゆえの「純さ」という面ではファーストのこれが1番。この後も、彼女は自分のトラウマを投げつけるだけ投げつけて、気が済んだらさっさとこの世界から去ってしまった。その潔さも含め、好きだなぁ。


■ The eccentric opera 『Paradiso』 (1998/エピックソニー)

エレクトロニカとかクラシッククロスオーバーとかトリップポップとかそういったジャンルの線引きが馬鹿馬鹿しく感じられる、わたしにとっての超絶アルバム。 これは「エキセントリック・オペラ」というジャンルです。そうとしか表現できない。
これがリリースされた98年は、ホント、サルのようにエキセントリック・オペラだけを聞いていたなぁ。
ちょうど大学生の頃で、通学途中にポータブルプレイヤーとかで聞いてるでしょ。と、もう泣いてるの。山手線の中とかでひとり涙ぐんでて。雑踏がふーっと遠のいて、自分の世界に陶酔して、で、号泣、という。かなり危ない。
エキセントリック・オペラというユニットが解体されたということは今でも信じられない、というか信じたくない。とはいえ、このアルバムのある意味究極的な、人知を超えた世界を見るに、これ以上の世界を二人で表現ことは困難かな、なんて思ったりもする。
研ぎ澄まされているし、濃密だし、かといって閉ざされてはいない。ポップスらしい間口の広さや余裕もある。この10枚で1枚っていったらこれかもしれない。


■ 書上奈朋子 『baroque』 (2002/ポニーキャニオン)

で、結局分解されたエキセントリック・オペラのキーボード・アレンジメント担当の書上さんのアルバムもここにはいるわけで。これがこの中で1番新しい作品かな。
音作りに関しては、エキセントリック・オペラの頃よりも一層深くなっていて驚いたな。音から悲しみが溢れ出ている。
それにしてもこの人の作る音は本当に否応なしに陶酔させられて困ってしまう。ヘッドホンで聞いていると一瞬で自分がなくなり、忘我の境地に無理やりもっていかれてしまう。 自分も世界もなにもかもが溶解して、ただ音だけの世界になってしまう。おクスリなしで、荒行なしでおチャクラ全開ですよ。
もうすぐ新作が出るようだけれども、楽しみで仕方ない(―――追記。新作『psalm』は『baroque』の上をいく名作だった!!!冬ざれた森をどこまでも一人きりで逍遥するような孤独がひりついた名盤)。この人の作品を知らない人は、なんだかとっても可哀相。


■ 久石譲 『My lost city』 (1992/東芝EMI)

これを買ったのは忘れもしない、95年のセンター試験第1日目。風邪をひいていてヘロヘロだった私はこの時点でこの年の大学受験を諦めて、試験終了後、会場だった大学近くの中古CDショップでのんびりと掘り出し物漁りをしていたのね。 多分その店は近所に下宿やひとり暮しをしている大学生の御用達みたいな店だったのかな、珍しいアイテムが安値でゴロゴロしていて、「親に顔を合わせるのが憂鬱だなぁ―――」と思いながら1時間以上店内を徘徊して800円で見つけたのがこのアルバムだった。 浪人の事実というにセンシティブになったわたしの心に久石センセの甘いデカダンな旋律は実に心地よく響きましたよ。響きましたさ。 先の見えない自分に途方にくれて「なにもかも面倒くさい」と布団をひっかぶってこのCDを薄く流してヘタレていたわけですよ。受かるはずのないレベルの大学をそれと知りながら受けて、滑りまくっている自分のテーマ曲だったわけですよ。今でも真冬に聞くとあの18の頃を強烈に思い出すそんなアルバム。
盤の内容はディスクレビューで紹介しているからいいよね。


■ 坂本龍一 『Playing the Orchestra』 (1991/ヴァージン)

自分の生涯のなかで1番読書に没頭していたのが高校から大学に入るまでの時期。読書は「感動するか否か」が全ての判断基準だった当時の私は変な楽しみ方をしていた。 映画に音楽をつけるように、読みながら残りの頁や話の展開からそろそろクライマックスだなと思うと、その作品にあったエモーショナルな音楽を一緒に流して勝手にサウンドトラック状態にして、自分の中の感動を倍化させる、なんてことをしていたのだ。 そんな時に1番聞いていたのがこのアルバムだった。たぶん、こんなリスナーは教授にとって1番イヤなタイプなんだろうなぁ。
これは彼がはじめてオーケストラのスコアを書いたというアルバムだと思う。前半が『ラスト・エンペラー』から、後半が『戦場のメリークリスマス』からという作り。 彼の映画音楽のオーケスストレーションというのはもう、有無をいわさない圧倒的なパワーがあって、読書しながらヘッドホンで大音量で聞いているともう涙腺刺激っぱなしなんですね、これが。
インストゥルメンタルを聞くようになったのも、坂本龍一からだし、オーケストラの美しさを知ったのも彼から。幼稚園や小学校のお遊戯やダンスの時の音楽が「ライディーン」だった私の世代はそういう人が多いんじゃないかな。


■ 加藤登紀子 『さよなら私の愛した20世紀』シリーズ (1997〜00/ソニー ユニバーサル)

97年からリリース開始した全10枚組のシリーズ。このアルバムシリーズは加藤登紀子という歌手の総括でもあり、20世紀という時代の世界の総括でもある。
その膨大な量とリリースペースの異常なまでの早さ(――50代後半のベテラン歌手が年に2〜3枚もアルバムを制作するなんて今どきアイドル歌手でもやらないよ)や個々のアルバムのクオリティーの高さにも圧倒されるけれど、ひとりの歌手が20世紀という時代を、世界規模でとらえるというそのスケールの壮大さは特筆するに値すること。 つまりこれは加藤登紀子の視点による音楽の「20世紀ドキュメント」なのである。

このシリーズは彼女の音楽がそのまま世界音楽である、といった大きさがある。これは加藤登紀子という人間がただの商業的な位置の「歌手」や「作詞・作曲者」ではないからこそ、の大きさなのだろう。 3人の子を持つ母という普通の生活者という側面、夫である活動家・藤本敏夫とともに環境問題に深く関わり、UNEP親善大使をつとめるという社会的な側面、さらに書・陶芸・俳句などと遊ぶ個人的な趣味の側面、 彼女は歌以外にも実に様々な世界とのつながりを持っているし表現方法を持っている。であるからこそ歌の世界もまた様々で広大な世界とつながりをもっている。彼女の表現する領域は地球の大きさとほぼ同じ、そう感じられる大きさがある。

この20世紀の終りに立った歌手であるひとりの表現者が20世紀という時代を世界をどのように解釈し、それを作品として成立させるか、という偉大な作業を、 ほとんどの音楽ライターは気づかなかったか、無視した。シリーズのリリース中、ほとんどといっていいほど注目されなかったのが今でも不思議で仕方ない。 だから音楽ライターなんて信じられない。
って、これだけ書き口が生真面目になってしまった。


■ 中原めいこ 『鏡の中のアクトレス』 (1988/東芝EMI)

男の子には必ずある時期に「ラブコメ」の洗礼があると思うんだけれど、私とってのそれが「気まぐれオレンジロード」と「めぞん一刻」だったのね。ちょうど小学生4、5年くらいで、色気づいてはくるもののそれを兄弟や同級生に悟られるのが1番恥ずかしい時期に見ていたのがこの2つ。 茶の間にあるテレビで見るのが恥ずかしくって、親の部屋にある14インチのテレビで見ていたなぁ。 で、そんな「きまオレ」の末期の主題歌だったのが、めいこさんの「鏡の中のアクトレス」と「Dance in the memories」。元々「きまオレ」主題歌はどれも好きだったけれども、「ザ・ベストテン」のスポットライトでのめいこさんのシャープな姿に「きまオレ」のテーマ以外の彼女の興味をもって「友&愛」(なっ、なつかしぃ)でレンタルしてみたって流れかな。
ニューヨークからフロリダ経由でカリブ海といった「おっとな」のリゾート気分にローティーンのガキんちょはやられた。英字新聞のようなジャケットも好きだったなぁ。赤の挿し色が印象的。
今の耳で聞いてもラテンやブラコンやディスコを絶妙にコンテンポラリーな踊れる歌謡曲に仕立てていて、実にいいアルバムだと思う。この腰の軽さを感じるセンスは女・筒美京平といってもいいんじゃないかなぁ。 それにしても早見優に提供した「Carribean night」はめちゃくちゃカッコイイ。斉藤ノブのパーカスは吼えまくりだし、杉本和世―坪倉唯子コンビのコーラスとめいこさんとのボーカルの応酬が圧巻。 このアルバムを最後にニューヨークに旅立って、帰ってこなかっためいこさんだけれども(――アルバムは2枚出したけれどね)、歌手としてでなくても裏方でもいいから戻ってきて欲しいなぁ。ソングライティング能力はかなりあると思うんだけれどな。






■ 手塚治虫 『ブッダ』 (潮出版社/講談社)

世代からいって「手塚治虫体験」というのはない世代なんだけれども、15歳の夏休みの時かな、母の本がしまってあるダンボールで見つけて、暇だったのでふらふらと読み始めたらのみこまれてしまった。 弟のうなぎにもすぐ感染して、彼は「1日、2ブッタ(を読む)」なんて息巻いてましたね。テーマは「宗教と生」かな。壮大で普遍的。いつの時代のいかなる人でも意味のある物語だと思う。この話に共感できない人とは話したくないって感じですね。 手塚治虫の諸作ではそんなに目立つ作品ではないけれど、これが最高峰だと思う(次が「火の鳥」かな)。
これを機会に手塚治虫の作品を読み漁るようになったし、「漫画は文学たりうる」という意識を持つようになって本格的に色々な漫画作品を読むようになった。 ということでわたしの漫画の入り口もまた「手塚」なわけなのです。そういった意味も含めてやっぱり、偉大。


■ 萩尾望都 『残酷な神が支配する』 (小学館)

手塚治虫の次の衝撃が萩尾望都だったかな。手塚が演繹的な大河ドラマが得意なのに対して彼女は帰納的な小さいドラマが得意に見える。彼女の作品にある底なし沼のような深い内面描写といい、「家族」という共同体にこだわる姿勢といい、極めて近代的な作家であり、小説的なドラマツルギーを持つ作家に見える。 「残酷な神が支配する」はそんな彼女の「家族の物語」の集大成のような話。「家族」という規範と実像のズレの犠牲となった一人の少年とその家族の悲惨な物語。 緻密な人物配置と人物描写。破綻の一切ないリアリティーを超えたリアルそのものの正確な物語展開。 わたしにはこの話がドキュメンタリーに見えて仕方なかった。この話はいわゆる物語的な安易なカタルシスはまったく用意していない。が、それゆえに救われるような気がする。偉大で重く、きわめて現代的な漫画。

この漫画に、わたしは勝手に「借り」を感じてしまっている。助けられた、というか。寄りかからせてもらった、というか。 この物語のようなことを自らが実際味わったということはないのだけども、読み続けて、これほど救われたと思った作品も少ない。素直に感謝したい作品。


■ 吾妻ひでお 『不条理日記』 (奇想天外社/太田出版)

この1冊というよりも、吾妻ひでおという存在そのものが衝撃だったって感じ。その象徴なのが「不条理日記」だったわけで。
彼のギャグは「タナトス」の笑いだと思う。 自分を含めたあらゆるモノを笑いの俎板に載せ残酷に「笑い」へと裁いていく、そのタブー一切なしの実験的先鋭的な笑いは、最後、自らを1番残酷に切り刻むようになり、結果彼は壊れてしまうのね。 それがねぇ、なんかね、見ていて切ないのよ。今は心療内科のお世話になりながらどうにかとうにか書いているという状況で、これが好転するということが多分まったくないであろうというのも、また。
吾妻ひでおという漫画家の後の世代への影響というのは、特にマイナー系オタク漫画に関しては多大なものだけれども、誰も吾妻ひでおにならなかった。そこまでの覚悟も度胸もなかったんだろうな、きっと。 タモリになることも筒井康隆になることも出来なかった、というか漫画というジャンルがそれを許さなかった悲劇を彼に感じたりもする。
ちなみに、壊れた自分をかき集めるような復帰後の「銀河放浪」もいいよね。「産直あづまマガジン」はもちろん毎号買ってますから、頑張らなくてもいいので、これからもファンにお姿を見せてくださいませ。


■ 榊原史保美 『青月記』  (光風社出版/角川文庫)

確か高校2年の夏休みに関西へ奈良飛鳥文化探訪旅行をした時に旅の友にと思って買ったんだよな。これ。 小島文美のドロドロして美しい表紙絵に惹かれたというのと、なんとはなしに「恋愛小説」が読みたいなぁ、と思っていて……。 「やおい」という言葉をまったく知らないわたしは本当に偶然に手にとったのよ。
がねぇ、これを読んで、もう、とにかく、ビックリした。世界がひっくり返ったような感じがした。ええええっっ。こういうのってありなのォッッって。 なんか今までの価値観とか、今までの大切にしていたいろんなものが薙ぎ倒されたような気がした。
この本のおかげで、ほとんどその時の旅行の記憶がない。そのかわり四国から神戸に向かう船中、明かりの落とされた食堂で「蛍ヶ池」を読んでまったく眠れなくなり、 大阪のホテルで「カインの月」を読んで完全陶酔し、帰りの高速バスの中で「奈落の恋」を読みきれずに、歩き読みしながら帰宅したことは覚えている、という。 これが私にとっての「やおい」のファーストインパクト。栗本薫にとっては「枯葉の寝床」がそれだとしたら、私はコレ。
彼女が新しい小説を上梓しなくなって随分時がたつけれど、いまはどうしているのかなぁ、と思ったりもする。また小説を書くようになったなら、是非とも読んでみたい。


■ 栗本薫 『滅びの風』  (早川書房/早川文庫)

榊原史保美を読むようになってからいわゆる「June小説」を知るようになって、そこからすぐに辿りついたのが彼女だった。ただこれは「June」ではないんだけれどね。 これはいわゆる「世紀末小説」。しかしエンターテイメント作品のようなハルマゲドンや天変地異は起こらない。ここにあるのはただ淡々と心臓の鼓動が徐々に弱くなるように訪れる静かな終焉。 昭和末期、バブルの裏で日本全体には不可思議な終末意識が広がっていたあの頃。「ドラえもん」や「サザエさん」の最終回の噂。チェルノブイリと「危険な話」。いつか来るX-day。繁栄の日々の終焉。
そんな空気を思いっきり引っかぶったようなきわめて哲学的宗教的な小説。生きるということはモータルな存在であることを引きうけること。これがこの短編集のテーマなんじゃないかな。 今読み返すとあまりにもセンシティブすぎるような気もするけれど、それがいい形で透明感になっている。情緒過多な彼女の特徴がもっともいい方向に働いた作品のひとつじゃないかな。 とにかく、無条件に泣けます。


■ 中島梓 『小説道場』  (新書館/光風社出版)

もともと中島さんの筆の滑りがちな気まぐれエッセイが好きだったんだけれども、そのなかでもダントツに残るのがこれ。 「小説June」で連載された読者からの投稿小説を批評・指導するコーナーを集めたものなんだけれども、ただのカルチャーセンターの小説講座とはわけが違った。 精神的に1番つらかった時期に読んだからというのもあるけれども、文章を書くときの心構えみたいなものも学んだと思うし、大袈裟ないい方をすれば「人生」を学ばせてもらったというか、それくらい大きかった。 一度高慢な門弟(確かたつみや時代の秋月こおだと思う)を紙面で手ひどく叱ったことがあったのだけど、それが自らのことのように響いておもわず泣いてしまったことがある。

ここからいろんな作家が成長し旅立ったし、連載中に「JUNE」や「やおい」や「少女漫画」を取り巻く状況もどんどん変わったけれど、それらの様子が実にライブ感覚で楽しめる。「やおい盛衰実録」としての部分もあるかな。


■ アガサ・クリスティー 『春にして君を離れ』  (早川文庫)

これは中島梓さん経由。「小説道場」でこの小説の一節を引用していたのに感動し思わず手にとってしまった、という。
もし自分の人生の最終章で今までの人生が虚飾と独善につつまれた偽りの人生だったということ気づいてしまったら、という話。 本当の意味で「生きる」ということは一体なんなのかということを考えさせる、彼女の唯一の純文学じゃないかな。ラスト、ゆるま湯の偽善に回帰していく主人公があまりにもリアリティーに溢れていて、あまりにも残酷な話だな、と思う。わたしには重すぎて、もう一度ページを開くのが怖い小説。


■ 久世光彦 『聖なる春』  (新潮社/新潮文庫)

最初小説家の久世光彦が「寺内貫太郎一家」や「時間ですよ」や「悪魔のようなあいつ」や「ムー一族」を手掛けた有名演出家の久世光彦と同一人物だとは思わなかった。
赤江曝や中井英夫や澁澤龍彦などの系譜にあたる硬質な美意識を持った作家であり、きっと彼は華族の末裔かなにかで、自らの館の眠る様々な美しい調度品を切り売りしながら無益な日々を過ごしつつ、溜息のような美しい小説やエッセイを筆すさびのように書いているのだろうとわたしは夢想していた。
「昭和幻燈館」や「怖い絵」などの久世光彦はまさしく「最後の耽美派」といった妖しく絢爛で薄暗く枯れた風情があって大好きだったけれど、その耽美的作品群のなかで1番酔わせてもらったのがコレかな。俺も蔵の中にこもってクリムトの戯画を書きつづけながら春を待ち続ける老人になってみたいっちゅうのっっ。 これはハードカバーの装丁がいいんだよね。いつまでも手元において、時折気まぐれに開いた一節を読んで陶酔していたいという気分になる。 今は「小説家」としての部分を広げて、時代小説やらいわゆる「久世ドラマ』的な小説やら色々なジャンルで書かれている方ですが、わたしは作家・久世光彦は「耽美派」だと信じております。


■ 中森明夫 『東京トンガリキッズ』  (JICC出版/角川文庫)

今、という時代を生きることの『不毛』。それがこの小説だと思う。
スノビッシュな記号の嵐の向こうに、ブラックホールのような虚無がぽっかりと口を開いて待っている。 墜落死するアイドルが見た束の間の幻影、それが「僕らの世界」。 もうすぐ終わるだろうこの世の最後の瞬きの狂乱。その先にはなにも待ちうけていない崖の切っ先で僕達は飽きることなく踊り遊び続ける。
高度情報化社会の向こうにある虚無―――これは80年代の物語でもあり、いまの物語でもある。 ――って、これ、つい最近単行本未収録作品をまとめて文庫化されたんだそうで、あぁっ、読まなくっちゃ。
あ、そうそう、ここにある虚無は岡崎京子の見ていた虚無と同質だと思う。いわゆるサブカル的視点による現代の袋小路の世界。 こうした東京近郊の私立学生風のセンチメントを偏愛していたのですね、自分。いわゆる典型的ポストモダン的言説がどれほど今も有効かわからないけれども、岡崎京子が再評価されているところを見ると、商業的にはまさしく「今」みたい。 ということでこの作品も再評価希望。


■ 平岡正明 『山口百恵は菩薩である』  (講談社/講談社文庫)

わたしがこういったアイドル評論とかレビューをウェブサイトで行なっている最大の原因はこの本と出会ってからなんじゃないかな。 大学の頃、古本屋で見つけて、卒倒した。こういうことかっっっ、と目からうろこが落ちたという部分もあったし、我が意を得たりという部分もあった。それにしても歌謡曲評論を真っ向から行なった本ってなんでこんなに少ないんだろ。 ちなみにこれ、ハードカバーの装丁がすごいんだよね。後に文庫化されたみたいだけれども、是非ともハードカバーで手にとって欲しい。


2004.11.26
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