中森明菜 『VAMP』
1.Pride and Joy 2.Egoist 3.Crescent moon 4.Metropolitan Blue
硬質で濃密な、四つの夜 (1996.12.18/MVCZ-1002/MCAビクター) |
96年秋、例のごとく――と書くあたりなかなか物凄いものがある、中森明菜のアルバムリリースが滞っていた。 10月予定のフルアルバムが11月になっても届かない。 と、そのまま予定はずれ込み、94年秋のようにアルバム発売はないかと思われたところに、予定変更、ミニアルバムということで12月18日に発売が決定した。 ということで今回はそのミニアルバム『VAMP』の話。 件の事情の末であったので、CDをトレイに載せるまでの印象は正直言って悪かった。 おいおい、ずいぶんだな、結局レコーデイングできたものだけで出すってことかよぉ。まったく、ちゃんとしろよぉ、明菜。 という気分だったのである。 が、一曲目かかった途端、 ひえーーーーーーっっっ、あ、あ、明菜さまぁー―――、さ、さ、最高ですぅ。ぶつぶついってごめんなさぁーーい。 その場で平伏してしまった。 このアルバム。一言でいえば最高。 二言目に言うことはとにかく黙って聴きなさい。 それしかない。 ということでみなさん聞いてください。 おしまい。 ……と、本当にこれだけで終わってしまっては話にならんのでやっぱり続き。 一聴して感じたのは、これは96年版の『Femme Fatale』だな、ということ。 前回は妖女、運命の女、今回は悪女である。 どちらも男を破滅に導く魔性の類であることに変わりはない。 ということで内容はエロティック、扇情的なんて言葉を超えて既に表現がセックスそのものといっていいところまでいっている。 詞などほとんど情事の描写そのもの。 とにかく、エロイ。 20分弱計4曲のこの小さな世界が濃密なエロスで満たされている。 物凄い訴求力である。黒光りして独自の妖しげな香りを漂わせているのである。 聴いていると都会の夜の底を徘徊する深海魚になったような気分になる。 レコーデイングでのトラブルがどういった類であったのか、それは私にはわからないが、ともあれ、こんな完璧な4曲を出されちゃなにも文句がいいようがない。 まず一曲目「Pride and Joy」。 誇りと悦びである。タイトルからもう既に濃厚な香りが漂っている。 でもって、「部屋中がベッドでしょ」なんて誘われて「kiss してよ ソコ kiss してよ ココ」なんて明菜の低音で囁かれちゃ、わが愚息も昇天するっちゅう話ですわい。 ――スポーツ新聞みたいな表現だった、すまん。 あとちょっと凄いなと思ったのはここ。
性愛というのは本質的に排他的なものであるが、明菜のそれはもっと過激である。 食虫植物が虫たちを誘うように、現実世界を完全に遮蔽し、二人きりの甘い蜜の部屋に閉じ込める。 でないと、彼女の性愛のファンタジーは崩れてしまう。 これは『不思議』以降はっきり見られる彼女の性向である。 彼女は自らを閉じて愛の夢を見るのである。 作曲の朝本博文は当時UAのプロデューサーとして注目を浴びつつあった。次作『Shaker』でも大活躍となる。 彼も明菜にあう作家の一人であると私は感じる。 次の「Egoist」はもっとすごい。 ほとんどセックス依存症のような歌であって、 男に「You love what you're doin' to me」と斬りつけたと思ったらその刀で自らを「I love what you do to me」と斬り捨てるのだから凄い。 揺れてなお 限りなく醒めてる 「抱かれる前に愛があるほど、いつもそんなに綺麗じゃない」 と、男に身を委ねるものの、彼女の渇きは癒されることなく、まるで他人事のように、自らの情事を冷たく俯瞰で眺めているのである。 これは、「飾りじゃないのよ涙は」の延長にある歌といってもいいかもしれない。 それらを「だれもがエゴイスト」といいきり、男女を「わかりあえずにすれ違うだけ」と〆る。 男と女は愛し合いながらお互いを傷つけあうことすらできないのである。 これはこのアルバム中のベストであり、中森明菜という存在をそのまま掬い取った「飾りじゃないのよ涙は」「TATTOO」クラスの傑作である。 作詞の加藤健氏と作曲のTON・SHOJI氏が何者であるかは全くわからないが、是非ともまた明菜作品を手がけていただきたい。 「Crescent Fish」は松井五郎ー上田知華の作品だが、なによりU-ki氏のアレンジが凄い。 ビルの最上階の人気の少ないアクアリウムの水槽に番いの男女が放されている。冷たいコバルトブルーの水のなかで二人はイルカのように絡み合いもつれ合いながらことを行っている。 というイメージが私の頭の中でひらめいた。 We're just fall in love 彼女は、黝い情欲の夢の中だけで生きる「幻の女」なのである。 し、しびれる。 U-ki氏は次作「Apetite」でさらに爆発する。 そして、最後はLOOK(「シャイニン・オン〜君が哀しい」のだよ)のピアノ担当だった千沢仁氏による「Metropolitan Blue」でクールに終わる。 深夜の都会を徘徊する女のハイヒールのこつこつとなる音が聞こえてきそうだ。 ソフィスケイテッド・レディーというものはこういうものなのだよ。 と、思わず指を鳴らしたくなる。 だって「淫らな嘘も、薔薇になる」んだよっっ。 ここで表現されているのはエロスの果ての浄化である。 た、た、たまらんっっ。 中森明菜は愛を歌う歌姫である。 これは何度もこのコーナーのテキストで私が提出したテーゼである。 「恋愛至上主義者=中森明菜」説である。 が、愛には常に性の問題がその横に張りついている。 彼女はそこを決して誤魔化さない。このアルバムの表現する世界は「性愛」というよりほとんど「性欲」そのものである。 彼女はこの盤で性欲に溺れきっている。 これは先ほど述べたように『Femme Fatale』、また『Stock』の延長にあるといっていい。 『Femme Fatale』と比べると引きの部分がうまくなっていること、また低音の懐がより深くなっていることなどから彼女の表現力が増していることがわかる。 歌唱全体の印象としては情がより濃くなって、呪縛力がより深まったようにみえる。 簡単に言えば、精力が弱くなったぶん、情が深くなったのだ。 つまりは、一度に何回も気を遣る体力がなくなったぶん、一回一回の内容が濃い中年のセックスなのである。―――っていったらちょっとあられもない表現か。 同じ魔性の女でもこちらは、一度捉えられたら、精も根も果て吸い尽くされるまでとても離してくれそうにもない感じだ。 明菜の世界にはこういったほとんど「性の求道者」すれすれの世界もあるわけなのだが、近頃この路線はお休みモードである。 この世界、久しぶりに見たいなぁ、なんて私は思ったりします。 ちなみに、このアルバムリリースにあったトラブルのリカバリーは早かった。 明けて97年2月にシングル「Apetite」、3月アルバム『Shaker』と、『VAMP』のハイクオリティ―が納得できる高密度の作品を連続でリリース。 でもって、五月からは9年ぶりとなる全国ツアーまで敢行した。 |
2003.12.09