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宇多田ヒカルから見る新たな時代

(『Deep River』/2002.06.19/TOCT-24819/東芝EMI)


宇多田ヒカルという歌手は、極めて自照性の高いアーティストである、と思う。
それは日本の歌謡界でトップクラスといっていいかもしれない。

彼女の歌を聞いていていつも感じるのは、結局この人自分のためにしか歌っていないな、ということだ。
これは彼女がエンターテインメントに徹しきれていない、素人芸だ、という意味ではない。
それは、彼女の歌う動機は常に内面にむかっている、ということであり、例えていうなら、彼女の創作姿勢は純文学作家のそれに近い営為である、と思うのだ。
確かに音楽における自作自演という表現スタイルというのは多分に「作家的」である。
が、宇多田ヒカルという歌手を見るとき、それはとても顕著にあらわれている、と思う。

彼女が今の時代を象徴する歌手のひとりであるということに異論を挟む者はいないだろう。
もちろん、彼女以前に自作自演スタイルでもって時代のハンドルを握った歌手というのはもちろんいる。
例えば、松任谷由実、中島みゆき、男性なら井上陽水、吉田拓郎もそうだろう。
彼らにも強い作家性がある。
が、彼らはマスによって大量消費される過程に於いてその作家性には必ず変化があった。
かいつまんでいえば、その作家性は、ブレイクし、よって何百万もの大衆を背負うことによって、初期の頃とは違ったものへ微妙にと変質するのである。

例えばユーミン。デビュー時のアルバム『ひこうき雲』『ミスリム』といった作品は高水準であるもそれは彼女自身からのみによって生まれたとてもパーソナルなアルバムである。
雰囲気としては感受性の高い少女の日記を盗み見るようなアルバムである。
が、ブレイク以後『コバルト・アワー』『The 14th Moon』と大衆を意識した、または自らと時代との接点を意識したアルバムを制作するようになる。
前者を純文学というなら、後者はエンターテインメント小説といえるかもしれない。
こうした変質は先に挙げた他のアーテイストにもあり、そしてこれは仕方ないことであると私は感じる。

売れなかった、脚光を浴びる以前は「自分」だけを相手にして音楽を作ればよかったのが、ある日突然、何百万という大衆に放り出され、そしてかれらの意識を無理やり背負わされてしまう。
そして大衆を背負い続けることによって、彼/彼女らは自分だけの世界だけでない世界を見るようになるのである。
ということで、彼/彼女らは「自らを歌う」という姿勢でありながら、最終的には自分を緻密に演出し、自分の見せるべき部分、見せないでおく部分というのを丁寧に腑分けし、結果マスによって作り上げられた架空の自己を自己として表現し、歌うことになる。
―――逆の意味で言えば、この4人は、そうした自己演出が秀でていたがゆえにトップに立った、ともいえる。


そして、時代は過ぎ、話は宇多田ヒカルにもどる。
日本最高売上げとなったアルバム『First love』。これだけであれば、ただのフロックであったのかもしれない。

これは、もちろん彼女が脚光を浴びるより前、つまりは素人時代から書き溜めたアルバムである。
このアルバムが自らのみをもって成り立っているアルバムというのは至極当然の話である。
実際、彼女は歌のハイレベルさとはかけ離れたどこにでもいる普通のハイティーンのちょっと生意気な物怖じしない少女としてテレビに登場し、多くの者を驚かした。
ともあれ、彼女は700万枚という驚異的な数字をたたき出し、今まで誰も体験したことのないマスの大海原へと放り出されたわけである。
これからどう彼女が変質するか??
私は静かに見守った。
……が、結論からいえば彼女はなにも変わらなかった。

いつまでたっても、レコーダーをベッドに持ちこんで布団を引っかぶってデモを作っているような宇多田ヒカルなのである。
大人相手にタメ口トークの宇多田ヒカルなのである。
コンサートのMCはまるでカラオケボックスの歌休みに友達とするくだらないしゃべりレベルの宇多田ヒカルなのである。
平気で他人の歌をカラオケ感覚で歌っちゃう宇多田ヒカルなのである。
彼女を支えている何百万という人の想いなどあたかもないかのように、まるでカラオケボックスで友達と歌うかのように彼女は歌うのである。
全くの自己演出なし。歌から離れると素のまんま。

それでいまだ彼女の時代なのである。
いや、これこそ新たな時代なのであり、その象徴が彼女なのではなかろうか、と私は感じる。


『Deep River』発売の頃の話だ。
「Final Distance」以降、それまでの作品から何かが少しずつ変わったように私の目には映った。
私はこのアルバムの発売を待ち、そして発売後は何度も聞き倒した。
「Letters」「SAKURAドロップス」「Deep River」「光」「プレイボール」……。
それぞれの歌が今まで以上に私の心の深いところに落ちていった。
そしてこのアルバム全体に漂っている、何かの予兆のようなものは一体なんなのだろうと、思った。
感情がゆっくりと潮が満ちるようにみちみちていく、そんな感じ。
はらはらと散った花びらが心の底にたまっていくような、そんな感じ。
淋しく、悲しく、孤独で、でも甘く。そこには未来への不安と過去への懐かしみが同居していた。
この意味を、歌詞から私は探そうとした。
「与えられた名前と共に全てを受け入れなくていいよ」とは「どんな時だってたった一人で運命忘れて生きていたのに」とは、などなど。
この意味深げな言葉はわたしたち=大衆へ向けてのなにかのメッセージではないか、と私は勘繰った。
が、これが深/不可読みであることを後日味あわされる。

「宇多田ヒカル、結婚。」
なんだよーー、そういうことだったのかよーーーっ。
このアルバムの歌が、彼女が一生を添い遂げようと思った相手と恋に落ちた時に作った歌であると聞くと全てが腑に落ちた。
とはいえ、それでこのアルバムの楽曲の評価が下がるということは全くないのであるが。

彼女は自分のためにしか歌わない。わたしたちのほうは決して向かない。それを痛感する出来事であった。


「私はみんなの答えは知らない。私の答えはあなたの答えでないかもしれないし。だから私は私の答えしかいえない。」
つまりはこれが彼女の一貫した創作姿勢なのだと思う。
これは極めて欧米的一人称的世界観であると思うし、そして自分を突き詰める果てに三人称的な普遍世界が待っている、その予兆がそこにはある、と思う。


であるからこれは彼女が大衆を背負うのを逃げていると言うわけではない。
むしろ、そうやって大衆を背負いつつも決して向き合わずに、自らのみをもって歌をつくる、という時点で彼女は無条件で時代の「今」と言うのを背負っているのだ、と思う。
「みんなのあゆ」だとか「時代のジャンヌダルク」だとか演出している某歌手よりも遥かに、その姿勢は今という時代に対して誠実であるし、そして時代精神そのものであると私は感じる。

作家は勝手に自分を見つめていればいい、そして出来あがる作品をわたしたちはそれぞれに勝手に意味を探し出し、答えを誤読すればいいのである。
なぜなら、誰かの指し示した「答え」なんて、もう嘘臭くなってしまっのだから。
であるから、わたしたちの答えを指し示さずに自分の答えだけ求めている彼女を時代は支持するのである。

と、比べると自称「時代のジャンヌダルク」浜崎あゆみ嬢は自分と大衆――つまりは他者との関係は極めてニ人称的であり、それは大衆と自己の地下取引のようなべたべたした関係であって、とても「いままでの日本」的である。
「あゆって、わたしのいいたいこといってくれる」的に自分を中心に据えて、同心円的に敷衍してファンを囲い込むのが彼女の姿勢である。
これは日本人の精神土壌によるものが大きいのだろうが、いままではこういった歌手−ファンの関係性というのは大変多かった。
いわゆる、コンサートが新興宗教の集会のようになってしまうアレである。
しかし、今、彼女の登場によって時代は変わるのである。
というより、変わるべきなのである。

もちろん、これはファン/大衆と歌手というだけの問題ではない。
自己と他者のコミュニケーションとマスという大きな命題を含んだ時代の大きな潮流の変化である、と私は思う。
―――ひいていうならば、マスとマスコミは、あるいはもっと大きくいえば、個と個は、それぞれでもって自立していく関係へと変革していくだろう。
マスとマスコミの馴れ合いの関係からの自立、というのは実際インターネットコミュニティーが実現しつつある。
マスコミがマスを先導(煽動??)できない時代がもうそこまできている。
そして、そして個の自立は時間はかかるであろうが、その末にゆるやかに起こることであろう。
――確かに地縁、血縁コミュニティーの断絶だけが先行した過渡期の今という時代はこれからもしばらく続き、そして大阪や新潟で起こったような悲惨な事件も起きるであろうが。

ともあれ、この変革のメルクマールとして存在してるのが、彼女、宇多田ヒカルなのである。
――と、今回もいきなり大きな命題を転がしたままで、興奮気味に筆を置く。

ちなみにこの宇多田と同じ文脈にいるのがCoccoである(であった??)と私は思う。


2003.12.01

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