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萩尾望都 「海のアリア」

萩尾流エンタメ漫画の決定版

(1989〜91年 月刊「ASUKA」連載/角川書店・小学館文庫)


萩尾望都は自身の創作のバイオリズムを「ヘンな作品を思わず描いてしまう時期と典型的な少女漫画が描きたくなる時期が交互にやってくる」と発言をしたのを聞いたことがある。
たしかに彼女の作品を時系列で並べると一定の周期があるように見られる。

「マージナル」と「残酷な神が支配する」という彼女の強烈な個性が結晶した長編名作の連載の端境にあたる数年(88〜92年頃)などはまさしく萩尾望都の「典型的な少女漫画」期といっていいもので、この時期は平明でわかりやすい作品が実に多い。
この時期、古巣の小学館で「フラワー・フェスティバル」や「パレット・バレエシリーズ」などのバレエを題材にした作品を続けて上梓し、一方角川書店では「海のアリア」「あぶない丘の家」などの良質でわかりやすいエンターテイメントSFを描いている。
そのなかにあって「海のアリア」は特に私の気に入っている作品の1つである。


「海のアリア」は萩尾望都の作品の系譜からいえば「訪問者」以来現在の「バルバラ異界」まで連綿と続く「家族の物語」のひとつといえるが、「海のアリア」に至っては他の「家族の物語」に見られるシリアスさや救いのなさというのは少なく、また極めて平明で間口の広いエンターテイメント性を持っている。
間口の広い「家族の物語」という面でみれば「メッシュ」に1番近いといえるかもしれないし、 また、主人公アベルの家族との関係の仔細やその抑圧のありようを見ると彼女のもっともシリアスで重厚である「残酷な神が支配する」にもまた近く感じる。
もちろん、この作品が珍しく日本が舞台であるというのもあってか、「残酷な神が支配する」に見られる神学的なガジェットはここにはないし、また性的虐待という問題もここでは扱っていない。 とはいえ、キャラクターの配置を見るにいちいちとこれがグレッグだな、これがイアンだな、などと私はついあてはめてみてしまう。
そういった対比としても見るのもまた一興だと思う。
そう見ると、アベルがジェルミのように自罰的な人間でなくて本当よかったな、と思ってしまう。


またこの作品はもう1つの局面も持っているようにみえる。 萩尾望都の「音楽・舞踏モノ」の系譜である。
萩尾望都は音楽・舞踏を重要なモチーフに用いることが多い。
「パレット・バレエシリーズ」「完全犯罪」「銀の三角」「アメリカン・パイ」などの1つにこの作品もあてはまるといっていいんじゃないかな。
今までの音楽・舞踏モノがそうであるようにこの作品もまた、紙面は常に流麗で繊細な音楽のイメージで覆われていおり、音が零れ落ちそうな躍動感に満たされている。

またSF作品として見た時も、波動生命体であるベルモリンという存在やそれを奏でるプレイヤーという設定。さらに惑星ナイトメアの挿話など、 実にしっかりとした世界観を持ちながらも、色彩感豊かでドリーミー。

それにしても人間の体が楽器になるっていう設定はよくよく考えてみればエロいよなぁ。
アベルとアリアドの関係は楽器と奏者の関係という事になるのだろうけど、うーん、よくよく妄想すればするほどなんてエロティック。 しかもここで奏でられる「音楽」というのはいわゆる「音波」でなく、心の深層をえぐり出して奏でられる官能の共鳴のようなもので、ゆえに奏者と楽器は本当の意味で一心同体で、嘘ひとつさえ通じない関係、ってあぁエロいよ、なんてエロいんだ。
―――しかもアリアドの育った星の社会には「友人」という制度がないせいか、なにかにつけてアベルを「俺のモノ」扱い、ってこれで萌えないわけないじゃないか。 良質なやおい作家がそうであるように、萩尾望都もまた性差のない濃密な関係性を描く作家である。と常々思っている私だけれども、それにしてもこの設定は、なんてJUNEJUNEしいんだろう。

音楽への憧憬とロマン、さらにSF的ロマン、そして家族の物語と内面の奔流、萩尾望都の作品を成立させる多くの要素がこの作品にはあり、それがエンターテイメント作品として実に高次に結合している。
またコメディーチックでテンポの速い台詞回しも小気味よく決まっている。この台詞回しは演劇好きの萩尾望都がよく出ているんじゃないかな。野田秀樹の芝居の影響が強いのではとわたしは密かに睨んでいる。 霰がパラパラとあたるように四辺に言葉が気持ちよく散らばる。
萩尾望都という作家性を感じさせながらも、それを横においていも充分に楽しめる娯楽性は現段階ではこの作品を置いてないのではないだろうか、と私は思っている。



この物語の主軸は、3つあると思う。
1つが、主人公アベルとその家族の物語。
もう1つが、もうひとりの重要人物であるアリアドの彼の旧友とその記憶との決別の物語。
そしてその2つを結びつける、妙なる音楽を奏でる波動生命体ベリンモン(=アベル。死んだアベルの体に乗り移って彼の記憶を読みとり、アベルそのものと自らも思いこんで暮らしているという設定)とその奏者であるアリアドの物語。

結果としては、アベルの家族の物語がなし崩し的に解決しアリアドのトラウマが昇華した時点、2人の主人公の自己に関する物語を終えたところで物語は幕になるのだが、この話、もっと続けられるよなぁ。
アベルとアリアドの物語というのはこれからも続くものだし、それこそ演繹的に壮大な物語としてどこまでも広がる余地はあると思う。
2人の楽器とその奏者という関係に焦点を合わせ、以後も続くであろう宇宙各地からの訪問者であるとか、あるいは宇宙各地での演奏会に赴き、そこで出会う人とのドタバタやら何やらを描けばどこまでも広がる話だと思う。 平凡な才能の持ち主の作家や編集だったきっとそう進めるだろうとおもう。
しかし、それをしないのが萩尾望都なのだなあ、と感心してしまう。 筆の勢いやら人気やらに惑わせることなく、物語のおわらせる時期をしっかり見極め、もうちょっとと読者に思わせる絶妙なところで丁寧に終止符を打つ。
これが出来ない漫画家と編集がいまどれだけいることかということを考えるとこの終わり方には本当に感服してしまう。
実際ここから先の物語は読者側にリリースさせて、それぞれの妄想補完でいって充分なところだしね。


それにしても萩尾望都は、アベルのような天然ちゃんで場の空気を一気に薙ぎ倒して気づかないゴジラのような自意識の持ち主と、アリアドのような忍苦的でどこまでも自分を罰する繊細でマゾヒスティックな自意識の持ち主の描写が本当上手いよなぁ。 この対比的な性格の二人がいっしょになってぐちゃぐちゃやっている萩尾望都の漫画は無敵。 シリアスだろうが、コメディーだろうが、なんでもオッケーで非常に可塑性が高い関係にみえまする。
この象徴的な2つの人格は萩尾望都の人格の陽の面と陰の面の象徴ではないかと私は下世話に解釈しておりますが、どうなんでしょうか?



ちなみにもうひとつ。
自分に絶望していたアベルが自殺に近い事故を起こし、自らの命を失い、魂の抜けた体にベリンモンの魂が偶然宿る、という冒頭のエピソードはこの物語を「アベルとその家族の物語」とだけ見た時、それは全くの妄想でもかまわなかったりする。
「アベルの物語」は「生き直し」と「関係性の再構築」のお話だから、一回死んで生まれ変わったというそれは妄想であって、まったく問題ない。むしろ妄想であるとみなしたほうがこの物語の持つ意味がわかりやすくなったりもする。 ここだけを抽出すると大島弓子の名作「秋日子かく語りき」とまったく同質。(――――ということで「秋日子かく語りき」も秋日子というひとりの少女の「生き直し」と「関係性の再構築」のお話だったりする。) とはいえそれだけだと長編サイズじゃないし、そもそもアリアドの出てくる隙がないしね。


2005.01.09
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