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逡巡 〜80年代の加藤登紀子 後編〜


 「私は騎馬民族」
 ――その昔、加藤登紀子は自らをそう規定していた。風のように、気ままに流れていって、その先々で歌を歌い、踊りを踊り、酒を飲み、恋をする。舞台から舞台へ、きままな旅暮らし。ジプシーのように、一瞬一瞬に魂のすべて燃焼させる。そのつみ重ねの一生。それが彼女の理想だったようだ。
 そんな彼女のパートナーが「農夫になる」という。80年、三女美穂の出産の頃と前後して、加藤登紀子の夫、藤本敏夫は千葉・鴨川での自然農法の実践に傾倒していく。
 歌手でありたい加藤登紀子と、農夫でありたい藤本敏夫。加藤登紀子流に言えば、これは「騎馬民族と農耕民族の対立」だ。大地の上を流浪する者と、大地に根ざす者の対立。
 自らを律し自らを実現しようとするふたりが、違う夢を見る。ふたりの溝は決して容易に埋まるものではない。「離婚」という結論をくだすのは、必然といえるものであった。――この経緯は、自著「青い月のバラード」に詳しい。
 しかし、加藤登紀子は、藤本敏夫と離婚できなかった。その逡巡が、80年代の加藤登紀子のもうひとつの歴史である。



 あの人と離婚しなくてはならない、でも出来ない――だってこんなにも愛しい。愛しさが体から溢れてくる。今すぐ去りゆくその背中を抱きしめてしまいたくなる。なのに、あの人は私の元から去ってゆく。どうすれば、いい。どうすることも出来ない。せめて強がりのポーズで、さりげなく別れて、そして、あの人を忘れて新しい恋を見つけて……いや、そんなことは無理、あの人以上の人なんていない。ならいっそ、あの人を憎みたい。冷たくこの想いごと捨て去りたい。あの人をつむじ風のように攫って、ともに誰もいない海に沈みたい。でも、それすらも臆病な私は出来ない。

 ひとつの「愛の破局」というプリズムは、加藤登紀子の歌にさまざまな色彩を与えた。その混沌として逆巻く嵐の海のような感情の、ひとつひとつを腑分けするように、加藤登紀子は歌にしていく。
 この時期の加藤登紀子のオリジナル作品は、エロティックで、愛の滴る作品。精神の高揚の瞬間の極みで作ったような、研ぎ澄まされた歌が多い。そして、それらは別れのバラードに顕著に表れている。加藤登紀子の別れをテーマにした自作の名曲の多くが、80年代の、この時期に作られている。



 突然、背中を向けて去る恋人の姿に茫然自失となる「川のサンバ」。
 真夜中の束の間の邂逅に溺れながら、目覚めの朝には、上着を来てさりげなくでてゆく男を「悩まずに愛せるなら 終わりなどこない」と歌う「夢幻」。
 深くとざされたわたしの孤独の扉を叩くあなた、束の間の熱い抱擁に愛の嵐が呼び戻される、けれど、わたしはあなたの想いに鍵をかける、もう二度とわたしを呼び起こさないで、と歌う「孤独の扉」は「夢幻」のバリエーションといっていい。
 また「もうあなたはいらない 毎晩枕を濡らしたけれど もうひとりで行くわ」と歌うオノヨーコのカバー「Good-bye Sadness」。
 「流れる水は待ちません 燃える炎は忘れます ただそれだけ」と、自分を水に、恋人を炎に例えて歌った「幻想」は、すべてを諦めた、白々とした表情を見せている。
 さらに。最後の別れに「ひとりが似合う女だねと あなたはいうけれども ひとりが好きな女なんて どこにもいないわ」と本心を痛々しくも告げ「さよならは私からの最後の贈り物なの」と逆説で塗り固めて今でも燃えさかる愛を告げる「さよならを捨てないで」。
 舞台のはねた後に、ひとり酒を飲みながら恋人に別れの手紙を書く「最後の手紙」は、「別れに乾杯」という束の間の強がりが悲しい。

 かように、実生活では別れに逡巡しながら、しかしそれゆえに、歌の中ではなんども愛しい男との別れを加藤登紀子は演じる。

 白眉であるのが、「帆を上げて」「冬の螢」「難破船」「駅」といったところ。
 「難破船」と「駅」で描かれるのは、激情のただなかの別れ、「愛している」となんども絶叫しながら、しかし、運命に強引に引きちぎられる別れ、セックスの最中にふたりが散り散りになるような、エロス的な混沌にみちた、あらゆる感情の嵐が吹き荒れる別れ、である。この歌の主人公にとって、愛の終わりはこの世の終わりと等価である。「難破船」では、「あなたを海に沈めたい」と心中願望までちらつく。
 一方の、「帆を上げて」「冬の螢」は、情愛さかまく嵐の夜のすぎさった後の――白く清い、夜明けのような別れの歌である。
 あらゆる感情が浄化され、ただ、愛しい人よ幸せであれ、と祈る。愛した者へ静かに別れの手をふる、そういう歌である。
 ――もしかしたら、もうこの愛は届かないかもしれない――でも最後に、あの人にささやかな愛を、孤独に震える夜のともし火になるような、ただひたすらに暖かい愛を、その淋しい背中に届けたい……。その、祈念にも似た遥かなる愛の姿が、胸を打つ。



 ふたりの和解のとき――それが正確にいつだったのか、それはよく知らない。
 1987年5月、ふたりは鴨川自然王国で、結婚15周年パーティを行う。結婚式を行わなかったふたりの本当の結婚はこのときだったのでは、と私は思っている。このとき、本当にふたりは「これが私たちの愛のスタイルだ。私たちの絆は、たとえお互い違う夢を見ても決してゆるぎないものなのだ」と、そう思うようになったのではなかろうか。

 81年2月発売のアルバム『Out of Border』から、87年2月発売のアルバム『My Story 〜時には昔の話を〜』まで連綿として描かれていた悲しい別れの歌は、あるいは、愛に飢えているくせにわざと斜に構えた強がった悲しい歌は、次作『TOKIKO 〜愛さずにはいられない〜』で、一転する。
 このアルバムで、加藤登紀子は、まっすぐに何者にも怖れず、両手を大きく広げて、愛を強く抱きしめる。副題からして「愛さずにはいられない」――。このアルバムは、まるで空が割れて、その隙間から天使の羽根がとめどもなく舞い降りているかのような、そんな「愛のアルバム」だ。
 「愛なんてどうでもいいと いってたわたし、それは嘘」と過去の強がりの自分を振り返るタイトル曲「愛さずにはいられない」。
 長くつらい迷いの日々があったらからこそ、今、大きな愛で歌うようにあなたを愛したいと歌う「My song my love」。
 オープニングの「LOVE LOVE LOVE」はまさしく加藤登紀子にとっての「愛の讃歌」だ。――世界が滅びても、愛は永遠。愛こそすべて。
 ラストを飾る「サヨナラ」も、また確信と、とめどもなく溢れる愛に満ちている。――「さよなら」は、この世の終わりでも、愛するあなたへの最後の贈り物でもない。「さよなら」は、次に会うための約束の言葉。だってこんなちっちゃな星ならどうせでまた会うに決まっているもの――。
 かつての自らが作り歌った悲しい「サヨナラ」の歌が、遠く後ろに霞んでいく――。



 サウンドをめぐる彷徨が終わった時と同じくして、加藤登紀子の、ひとつの愛の物語も、また終わった。そのふたつの物語の終わりを祝福するように、87年にかつて録音した「難破船」が中森明菜のカバーで大ヒット、さらに翌88年、「百万本のバラ」が大ヒットする。
 ここを基点に、新たなる加藤登紀子が――豊穣なる音の響きに包まれ、力強く、愛を高らかに歌う加藤登紀子の90年代が、はじまる。

 迷いあぐね、その末にさまざまな挑戦、試行錯誤を続けた80年代の加藤登紀子。
 生み出された楽曲の多くが、ファンへの認知は、さほど確かなものではなく、また発表したアルバムも、そのすべてが廃盤となり、現在入手は、難しい。しかし、加藤登紀子が加藤登紀子たりえるその道程に確かにある、重要なアルバムばかりであると、私は思っている。



※ 追記 このテキスト執筆後の昨年11月、『Out of Border』『愛はすべてを赦す』など、加藤登紀子のキャリアを語る上で外すことの出来ないアルバム数タイトルが復刻された。まだ一度も聞いた事がない方はもちろん、当時レコードで持っていたけれどもプレイヤーがなくて最近ぜんぜん聞いていない、という方も、この機会に当時の加藤登紀子を味わってみてはいかがだろうか。そこに加藤登紀子の歴史が垣間見えるはずだ。


(初出 加藤登紀子ファンクラブ会報「Seeds net vol.22」2007春号)

2007.03.23
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