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谷山浩子 「夢半球」

思いこみの魔力

(1979.11.05/PCCA-00261/ポニーキャニオン)

1.扉 2.破れ傘 3.たずねる 4.愛の妖精 5.紙吹雪 6.陽だまりの少女 7.もみの木 8.風の子供 9.テングサの歌 10.イーハトーヴの魔法の歌 11.風を追いかけて


サイッテーーッッ。何もかも、サイテー。
ディレクターはわけのわからないこというし、恋人は自分勝手なことばかり。
そしてわたしはそんなちっぽけなことにこだわって、何もできやしない。
――やってらんない。この世のみんなふざけている。もう、誰にも会いたくない。何も見たくない。何も聞きたくない。



……まあ、誰でもそうだと思うけれども、「青春」というのは、つらい。
自分が何になるかも、何が出来るかもわからず、それなのに様々な出来事が身の上にふりかかって、それをうまくかわすことも出来ず、ただひたすら翻弄される。 ぐずぐずと被害者意識ばかりがつのり、世の中の大人という大人は全て敵に見え、そして内に篭って、なにもしたくなくなり……。 そんな青春の藪の中で鬱屈してうずまっていた23、4歳の谷山浩子の心象風景を綴ったアルバムが79年作の「夢半球」といえるだろう。
ハンパなく暗い。

このアルバムを出した時期、相当彼女はまいっていたという。
仕事ではうまくいかないことばかりで、ディレクターにもアレンジャーにも自分の求めているものがいまいち理解してもらえず、 また谷山自身もどうやって歩み寄っていいかもわからず、「自分には音楽的才能などないのだろうか」ただひたすらに煮つまり、 またプライベートでも、あまりうまくいかない恋愛をしていたのだそうだ。

そんな彼女の精神的な切迫感がこのアルバムには濃厚に漂っていて、ゆえに不思議な磁場を持ったアルバムになっている。
以後の傑作「たんぽぽサラダ」や「ボクハ・キミガ・スキ」の完成度と比べると明らかに違うのだけれども、ただの心の澱の吐露に終わらない濃厚な世界がある。 聞くものを呪縛するようなアルバムというか、魔性のものがついているというか。 鬱な時の思いこみを結晶化したような、息苦しくも、切り捨てることができない世界。なんだか明後日の方向にぐわーーっとパワーがでています。 表現というのは、つらい時期にこそよりよいものができてしまうという一面があると私は思っているが、それを証明する作品のひとつといえるかもしれない。



「今、午前2時です。突然あなたに手紙を書きたくなりました。あなたはお元気ですか」
――彼女の語りでこのアルバムは静かにはじまる。 このアルバムの前半(A面)は、彼女が真夜中に恋人に向け手紙を書き――書きつづけることによって静かに 自らの心の深いところへ1歩1歩ずつ足を踏み入れていき、心の奥に眠っていていたさまざまなものを図らずも呼び起こしていく――というスト―リーで進んでいく。

「夜中に書いた手紙というのは、大抵使い物にならない」という話をある人から聞いたことがある。 自分の中に入ってしまって、相手へ宛ててというより自分のナルシスティックな感情をぶつけているだけになっちゃうから、とその人は云った。
たしかに夜更けに書く長い手紙というのは不思議なもので、相手への言葉なのにまるで言葉が鏡のように自分を照らしていく。 気がつけば思いもよらぬ本心に気づかされたり、というのは誰しもある経験だと思う。あまりにも赤裸々な言葉の数々にその場で便箋を破り捨てたことは私にも何度かある。 そんな手紙というものの不思議を表現しているのがこのアルバムの前半部分といえるのではないかなぁ。



一曲目「扉」はまさしくそのオープニングに相応しい楽曲。谷山浩子のプレーンなピアノの弾き語りである。
いつでも 真夜中に おとずれるものがある
細長い指で 私の心の 扉をたたく

彼女は心の片隅に眠っていたものたちにそっと光を当てる。 続く「破れ傘」はいかにもな70年代フォーク的な世界観の楽曲。
破れた傘であなたを迎えに行く。あなたを飾る銀色の雨の雫が綺麗。このままひとつの傘で寄り添ってどこまでも歩いていきたいと願う、という歌。道ならぬ恋に彼女はおちているのではという雰囲気を漂わせながら曲は終わる。 ちなみに曲は何故かケーナの音色が大胆フィーチャーされ、心はまるでアンデスの山々であるが、テーマとは全く関係ない。また谷山は女の情念を表現しようとしているのか、中島みゆきバリに低音の艶めいたちりめんビブラートを珍しく披露している。

「たずねる」では谷山浩子は自室を眺めまわす。彼女はモノを見つめることによって自分の心を見つめている。そして部屋を見つめる視線は外へと広がり、心の静謐は激情へと転じる。 ただ「やさしさ青春などと歌いながら街の夕暮れが流れていく 流れていけ 消えてしまえ」の部分はちょっと演歌っぽくって今の耳で聞くとちょっと恥ずかしいかなと思ったりするけれども…、まぁ、時代ということで。

「愛の妖精」は街の風景の歌。「たずねる」で"消えてしまえ"と歌ったやさしく、明るく、笑いさざめいている街の風景の歌である。
あらゆる色彩と音のあふれる都会の風景を嘘のようにふわふわと漂っている小悪魔のように気取った少女たちを「愛の妖精」と谷山は皮肉っぽく歌う。 彼女たちはみなかすり傷をかかえ、泣き真似上手で、悲しみ好きで、銀色を喪服をまとっている。

「紙吹雪」。これは強烈。ほとんど私小説。いきなり語り部分で「愛の妖精」冒頭の自分の言葉を否定する。 もうだまってやれ。世界一くだらない人間になって、立派なものをいちいちやっかんでやる。とほとんど逆ギレ状態。
この歌は谷山浩子が自身のことを批判した雑誌の記事を見つけた、という歌なのではなかろうか。
つまらない女だと 活字の文字が
私の顔をみずに 馬鹿にする
うすっぺらな本のなかで 誰もがよくて
お前だけダメと

うんざりする彼女は雑誌を切り裂く。
大切でない女の 大切でない指が
本のページを切り裂く 
部屋中に舞う 紙吹雪 紙吹雪
いい歌も いい本も 私のなかではみんな嫌われ役 敵役
いい気味だ みんな死んじまえ

心の最下層にあるもの、それは嫉妬と悪意であった。さらに続く「陽だまりの少女」もこれまたすごい。 これは三角関係の末、恋に破れた少女が相手の女性を憎む歌といっていいだろう。
――私はいつも闇の中、お前は心の闇も悲しみもしらず陽だまりにいる。と。だからおまえは陽だまりの少女で私の暗闇を知るはずもない、という。

お前のことを 思い出すたび
突き落とされる 寒い陰の中
時は過ぎても けして消えないシミのように
お前はいつも陽だまりの中

あの人を返して 私の夢を返して
ふりむかない陽だまりの少女

この部分は絶唱である。生の感情まるだし。上目遣いで恨めしげにこちらをねめつけている彼女の姿が見えるよう。 聴いていると「なんかやたら思いつめた厄介な女に引っかかっちまったなぁ」という困った気分になってしまう。
最後は「二人の仲などこわれてしまえ」と呪詛の言葉を投げかける。 ――と、心の襞をかき分けた末に身も心も夜叉になったところでこのアルバムの前半は終了する。 (――しかし、ここまで感情を吐露した癖して、A面最後の語りの部分でしらっと「つまらない手紙につきあってくれてありがとう。さようなら」というあたりがなんとも怖いなぁ。だから女性ってのは怖いんだよ)



後半戦は夜明けのシーンから始まる。
引き戸を開けるSE、続いて聞こえる小鳥の鳴き声―― 夜っぴいて手紙を綴った彼女は、傷心を癒すかのように、外界の自然へ飛びこんでいく。外は雨上がりの早朝。

「もみの木」は人知れず空高くすくっと立つもみの木と自己を対峙させた静謐な歌。「もみの木、なにかいい朝だね」の部分が決まっている。孤独だからこそ希望を心に灯そうという気持ちにさせる隠れた名曲。こういう歌こそ本当に人の心を暖めるんじゃないかなぁ。
「風の子供」「イーハトーヴの魔法の歌」はファーストアルバムに入っていてもおかしくない、いかにも初期谷山らしい自然賛歌で、これは危なげない。「イーハトーヴの魔法の歌」は当時のディレクター細川ともつぐ氏とのデュエット作でもある。

その中にあって異色なのが「テングサの歌」。 紀勢本線の岩代駅の人気のないベンチにふわふわ日向ぼっこしているテングサ視点による歌であるが、どうやら人類は滅亡してしまっているらしい。
汽車の時間に 汽車が来ないの
夜になっても 灯りがつかない
海は見えるが 船は通らず
道は見えるが 車は通らず

(……中略……)

駅長さんの帽子がほら ころがっているわ
そりゃあ あたしにとっては どうでもいいことだけど
人間のいない地球って もぎたてトマトみたい
こういった不気味で悪魔的な歌は後の谷山浩子のメインになるが、ここでひょっこり顔を出している。やっぱりこういう歌は谷山浩子だからこそ、という感じだなあ。

と、まぁ、こんな感じで後半は、野山のもみの木であったり、田んぼの脇を流れる小川だったり、和歌山のテングサだったり、イーハトーヴの雪の夜だったり、風の強い丘の上だったり、そういったところを舞台に据えて、 感傷にどっぷりひたりつつ、傷を治していく。 前半の真夜中の部屋のねっとりした世界と好対照で、まあ、前半の不気味なほどのテンションの高さと比べると、最後は普通のところに落ち着いていったなぁ、という感じなのだが、これは谷山浩子は前半の世界を完全に素でやっているわけではない、という証左なのかなと思えたりもする。



この作品を極北にして、フォークで暗い歌の谷山浩子の時代というのは完全に終焉し、次作「ここは春の国」からいわゆるオールナイトニッポンの、サンリオの童話作家の、コバルトの、斉藤由貴のブレーンの、谷山浩子になっていく。 振り返って考えるにこの作品はこの時代の彼女のひとつの完成形だったということなのだろう。

しかし、それにしても『夢半球』といい、山崎ハコの『人間まがい』といい、中島みゆきの『生きていてもいいですか』といい、この79〜80年のキャニオンレコードっていうのは、いったい何があったんだろうか。 ここまでものすごい決定打がこの会社からこの一年ちょっとのあいだで連打されたというのも、感慨深い。

2004.07.15

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