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中森明菜「SOLITUDE」

変化する歌、深化する歌

(1985.10.09/ワーナー・パイオニア/L-1670)

1.SOLITUDE 2.AGAIN


85年の3枚目のシングル「SOLITUDE」。明菜自身がシングルにと薦めた楽曲だそうで、明菜が1スタッフとして本格的にプロデュースに関わるようになったのはこの作品あたりからのようだ。
が、残念ながら、私はこのシングルでの歌唱はあまり好きではない。
ざっくり言えばこの歌は「都会での恋にほんの少し疲れた女が束の間の逃避のために高層ホテルの一室に泊まる」という歌だ。
しかし、曲調はメリハリがなく、ムーディーを履き違えているような退屈さで詩作もこれといったフックもない。それを明菜は「不貞腐れて世間にそっぽを向いている不機嫌な女」と演じて歌っていたのだが、 その曲と同じメリハリのない歌唱は、聞くにただひたすらに鬱陶しいだけで実体感がなく、どこか背伸びの感が否めないものであった。
また当時の歌番組での歌唱も、後の明菜スタイルであるコンセプチュアルな派手な衣装もなければ、印象的なフリもなく、つまりは表現として核となる部分が明確に指示されずじまいだったので「なんか明菜、かったるそうだなぁ」という印象しか残さなかったわけである。少なくとも私には。
「SOLITUDE」=「孤独」という題も、その言葉の重さには見合わないもので、どこか空回りしているという感じであった。
実際セールスも奮わず、「少女A」でのブレイク以来最低のセールスを更新してしまったし、ファンの人気も低い。
が、明菜自身はこの曲が大変気に入っているようで、需要の低さにもかかわらずわりとツアーのセットリストには組みこまれることが結構多い。
そして、そうした今の形で歌われるが実にいいのだ。
こんないい曲だったのかと驚いてしまう。


2つのコンサートでの歌唱を例として挙げる。
1つは97年のコンサートツアー『felicidad』での歌唱である。
こんなに色っぽいなんて、とわたしはこれを聞いてわけもなく嬉しくなってしまった。

まずここでは「♪SOLITUDE」と歌う部分が違う。
レコードやそれを下敷きにした歌唱では「やってられないわ」とでもいいいたげな嘆息のように「SOLITUDE」とぽっと呟くのだが、これが聞くにほとんど「ソチュ」としかきこえない。
一方、『felicidad』での歌唱はセクシーに巻き舌っぽく「SOLITUDE」を「ソルチュ」と明確に発音している。これがとてもコケティッシュな印象を聞くものに与える。
また「誰もみんなストレンジャー」の「ジャー」の部分を、レコードであれば平板歌うところを性感帯を攻められて仰け反るように、吐息まじりのかすれた声で「ジャァ(ン)」と声がのけぞる。
かように曲の平坦さを補うべく、彼女は声の表情でアクセントをつけて歌唱している。

さらにこの曲はレコードではフェードアウトなのをレコードを下敷きにしたステージでの歌唱では「探さないでね」と不機嫌に相手を突っぱねて歌を〆るのが普通なのだが、 このステージではその後の「醒めちゃいないわ」まで歌って〆にしている。これだけなのだが、これが曲の印象をじつに大きく変えている。
聞いて後の印象がずいぶん甘くなるのだ。「醒めちゃいないわ」まで歌うことによって、すげないようで、男に対してどこか誘っているような、そんな媚態まじりになるのである。

このステージでの「SOLITUDE」はじつに妖艶で肉感的といえる。
孤独すらも遊戯できる、しなやかでエロティックで自立した女性の姿が歌の向こうに見える。
恋をより深く味わいつくすために、彼女は今は一人、孤独に酔っている、という解釈で明菜は歌っているのではなかろうか。
『VAMP』や『Femme Fatale』の世界に近い歌唱である。
レコードの歌唱にある、ダルさ退屈さというのはここにはない。彼女は充実して孤独と戯れている。
「アーバンでソフイスケイトされた大人の女性」という楽曲制作時の初期コンセプトを更に深化させ、完全に自家薬籠中のものとしているといえよう。


もう1つは2003年コンサートツアー『I hope so』での歌唱。
これは先ほどのものより更にすごい。
この歌唱こそ「SOLITUDE」。タイトル通りここでの歌唱は「孤独」そのものである。

弦楽カルテットを中心とした静謐を湛えたアレンジに彼女の声は孤独に蒼ざめ凍りついている。
この歌唱にあるのは、決定的な断絶、あるいは神学的孤独――神に見捨てられたものの孤独である。
高層ホテルの非常口から眼下に広がる黄昏時の街の情景、それは茫漠と広がる孤独の海と彼女の瞳に映っているのではなかろうか。
帰るべき者が帰るべき場所に帰る灯ともし頃。誰もが温かく迎える誰かがいるなかで彼女だけは帰りつく場所を失い、今日も高層ホテルで一夜を過ごすのだろう。
預ける胸も交わす言葉も彼女にはない。むなしい黄昏時。

彼女は、これ以上ないほど切れ切れのピアニシモで「I'm tellin'you いつか I will see you」と歌う。
その歌唱がひりひりと痛い。
彼女は「いつか」などというものが自らのもとにやってくるなどということを一片たりとも信じてはいない。それは天国のようなもの。夢の向こうにむなしく輝くものだと思っている。
絶望。虚脱。諦念。
つぎの瞬間には自らその非常口の扉をあけ、紙のように階下へと舞い散ってしまうのではないか、と思えるほどだ。
孤独の深さにおもわず言葉を失ってしまう。


当時の明菜のシングルの楽曲のほとんどはポップスターの至上目的である「ヒット」に向かって明確に構築されていたし、 そして実際明菜の歌唱やダンスもリリース直後の歌番組での歌唱がその楽曲の最上であるというものがそのほとんどであった。 彼女はその時その時をヒットという形で時代に対して切り結び、そして完全燃焼していたわけである。
が、そういったなかに「SOLITUDE」という曲があるのはとても興味深い。
そして「ヒット要請」のなかで生まれ、リリース時はこれ以上ないほど鮮烈なイメージを聴衆に与えた「飾りじゃないのよ涙は」や「Desire」が近年のツアーの歌唱では「ナツメロ」の意味しかそこに感じ取れないのと対照的にこの歌は変化し、深化しつづけているのである。
楽曲にも、それぞれ旬の時期や賞味期限があるのだ。



2004.07.28
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