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中森明菜 「スローモーション」

少女趣味という胎衣

(1982.05.01/ワーナー・パイオニア/L-1600)

1.スローモーション 2.条件反射


松澤正博氏は著書「超少女伝説」(青弓社)でこの曲の詞をこのように解読している。


この詩歌の全体の特徴は何かというと、"出逢い"であるにもかかわらず、相手の男には顔がない、ということだ。 長い足以外に、相手の男そのものに関する情報が全くない。
いや、この詩歌にはそもそも髭が生え、汗をかき、息を吐くリアルな"男"そのものが不在なのだ。ここにあるのは、あくまでも少女の自己イメージであり、渚を駆けてくるのは、"男"ではなく、少女の<かくあってほしい>自己イメージのアクセサリーとしての、"甘い恋の予感"なのだ。

つまり、この歌にかかれている「男性」は具体的、実存的な男性そのものではなく、少女にとってかくあるべきという理想につつまれた「記号的」な男性であり、自己のナルシズムを増幅するための装置、「他者を装った自己である」と。

とまあ、いきなり難しいことをいって恐縮であるが、ものすごぉくかいつまんでいえば、ここの詞にある「男性」っていうのは、70〜80年代の少女漫画誌「りぼん」や「なかよし」、作家でいうならばいがらしゆみこや田淵由美子や太刀掛秀子の描いた<素敵な彼>と同質である、ってことだと思う。 ――って俺、少女漫画読んでねぇからわかんねぇよっていうあなた、つまりアレだ「キャンディキャンディ」とか「チッチとサリー」のサリーとか。カギカッコで「おとめちっく」といわれているアレ。(――――「乙女チック」世代の元少女達がヨン様などの今の韓流ブームを支えている、というのはあきらかな蛇足だな)

まあ、つまり、背が高くて、足が長くて、ハンサムで、やさしくて、口笛吹きつつ、シェパードなんか連れていて、……。 なんて現実にはいそうにもない体臭のしなさそうな、エロ本とか読まなさそうな、うそ臭い男を相手に戸惑ったり、顔を赤くさせたり、いじらしく服の袖なんかつまんだり、自家製のクッキーをプレゼントしたり、っていう「おとめちっく」の世界の歌だ。と。

この「自己の理想を鏡映したような架空の男性像を相手とした自閉的なひとり遊び」といった趣きの「おとめちっく」路線の歌を、この「スローモーション」をきっかけに作詞担当の来生えつこは徹底して、明菜に提供することになる。
「セカンドラブ」は、恋人のセーターの袖口をつまんで俯くばかりで「帰りたくない、そばにいたい」のひとことがどうしても云えない少女の歌だし、「トワイライト」は一人旅の旅先で恋人にあてる手紙に「やはりあなたと一緒にいたい」というひとことを書きあぐね「元気です」と一言だけの手紙をポストに落とす、という歌。 どれも徹底して、「おとめちっく」。歌に出てくる「男」はまるで影法師のように実体がなく、個別具体性がない。


こうした歌が、一定のリアリテイーを持って響いたのは、中森明菜というキャラクターが、まさしく「おとめちっく」感性の持ち主だったからなんじゃないかなあ、と私は思う。
当時の中森明菜が「おとめちっく」であったことは、彼女が「アラビア文字」と自称した変体少女文字を多用していたこと、「ゴミドリ」などのファンシーキャラクターを手遊びによく描いていたこと、また彼女が「20代前半で結婚して、仕事を辞めて、子供と一緒に旦那さんを帰りを待って」という結婚観を語っていたことなどから類推することが充分できると思う。

もちろん、「おとめちっく」はこの時代の少女を読み解くキーワードのひとつではあるれども、何よりその性向が強かったのが彼女であり、その性向の強さゆえに多くの聴衆の支持を受けたという可能性もあるのではなかろうか。と私は思っている。

彼女の病弱だった幼少の時代をひとつ、紐解く。

幼児期を振り返る時、中森明菜の脳裏にはぼんやりと浮かぶ、ひとつの風景がある。 布団にくるまった、自身の小さな姿。天井を見上げては、ひとつひとつ、ふし穴を数えていた。あそこにひとつ、こっちにもひとつ……。6畳間の天上のふし穴を全部数え終わると、またはじめから繰り返した。 こっちにひとつ、あっちにひとつ……。家の中は静かだった。

……(略)……

熱が下がった午後、明菜は時折、庭に建てられた6畳のモルタルの離れに出かけては、部屋の隅にうずくまった。 そこは6畳2間の母屋には入りきらない長女のピアノとオルガン、そして500枚近いレコードが棚に収められていた。明菜はそのしんとした光景を見るのが好きだった。

「中森明菜・心の履歴書」(麻布台出版)より


――彼女の「おとめちっく」な歌には、凡百のアイドルソングにある平板な「おとめちっく」にはない、ある種独特の切羽詰った感じが漂っている。一瞬でも目を離したら壊れてしまいそうな硝子細工の儚さと、それゆえの想いの強さのようなもの。


デビューにおいて明菜は自己のそれまでの少女期を反芻するかのように、ひとりきりの世界で「♪ Someday my prince will come」と甘い歌を紡いだ。(――ちなみに松澤正博氏はここにおいて、牧葉ユミ「回転木馬」(――山口百恵がスター誕生で歌った楽曲)との相似性を指摘している。)
そのまま甘い歌だけを紡いでいればよかったのだが、しかし、現実というのはそれほど甘くはない。少女趣味の胎衣の向こうで呼び起こすものがある。男たちの生々しい手が彼女の世界を侵犯しようとする。ということで次回は「少女A」の話。今回は珍しく連作。



ちなみに―――このこの曲は「山口百恵のアルバムをつぶさに聞いてみると、来生姉弟の作品が散見されるのに気づいて発注した作品」(ディレクター、島田雄三氏の弁)とのこと。
この曲が牧葉ユミ「回転木馬」あるいは、山口百恵の「としごろ」との相似性があるのはなにも偶然ではない。

――さらに関係ないが――
多分中森明菜は紡木たくの「ホットロード」とか、読ませたらハマルと思う。なんとなくだけれども。 暴走族のあんちゃんを「いいなぁ」とぼんやりと眺めているいつも俯きがちの内気な少女に共感するんじゃないかなぁ、と。 あの「学校」という胎衣の向こうは空白という閉鎖世界のおとめちっく(――しかもちょっと不良に共感)てのはまさしく中森明菜的感性なんじゃないかなぁ、と。 世代からいって絶対読んでないだろうけど。

そして、この「『おとめちっく』たろうとする自分」は以後の中森明菜の歌手活動の中で起こる様々な出来事のひとつのキーワード(――それは「悪い意味で」であるが)となってくる。


2005.04.10
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