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松尾スズキ 「宗教が往く」
馬鹿馬鹿しくも残酷な愛の物語 (2004.03.30/マガジンハウス) |
最終章を読み終えた私の心の中に、トーマスマンの『魔の山』の結びの言葉がふとひらめいた。 ――「世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつかは愛が誕生するのだろうか?」 こんなに馬鹿馬鹿しくて、こんなに微笑ましくて、こんなに愛に溢れて、こんなに狂っていて、こんなに残酷で恐ろしい話は、ちょっとないほどに久しぶりだ。 名作――という言葉を軽軽しく使うことさえ、憚れる。偉大――偉大な作品だと思う。 はたして今現在仮初めにも「小説家」という稼業を営んでいるもので、この小説よりも「今」という時代を残酷に切り取りながらも、暖かくそして壮大で馬鹿馬鹿しい物語を綴ることができる者がはたしてどれだけいるだろうか。 劇作家、あるいは俳優としての松尾スズキの活動履歴を私はほとんど知らない。 しかし、この「宗教が往く」1冊をもって彼が21世紀の日本文学の金字塔を図らずも打ち立ててしまったこと、これは忘れてはならないことだ、と思う。 ――ここまで読んで「ずいぶん大袈裟なオマージュだな」と鼻で笑う者もいるかもしれない。しかし、これは読後の今の私の正直な気持ちだ。 この小説にある実験性、批判性、愛、それらはほとんど筒井康隆と比肩すべき位置にある、私は思う。 ◆ この小説はあるきっかけで人生そのものが百鬼夜行のような一生をおくってしまったフクスケなる男の一代叙事詩といっていいと思う。 みんな不幸で、みんな狂っていて、みんなむちゃくちゃで、みんな死んでしまう、そんな世紀末小説といってもいいかもしれない。死の欲動がこの物語をすっぽりと包んでいる。 それを、意図的なまでの過剰な物語性と過剰な自分語りと自由闊達を飛び越えたすべりまくりの筆致で、徹底的に実験的に、メタに、スラプスティックにペシミスティックに、そして愛をてんこもりで、描写している。 それにしても、何よりも素晴らしいのが、この小説の登場人物の描写だ。 登場人物のほとんど全てがナチュラルに壊れていて了解不可能な狂気の住人でありながら、わからないなりになぜか不思議と彼らがわかってしまう。 作者は狂気の世界の住人を一本の電話線のような細い糸をたよりになんとか世界とコネクトさせ、読者の了解域にまで引き上げて描写している。 出産直後にいきなり快哉を叫んで立ち上がり、列車に飛び込み自殺するフクスケの母……。 女便所になりながら人類の破滅に到らしめる恐怖のウイルス――ヒヒ熱ウイルスを開発して、突然自殺するエイプ博士……。 「わたしをわかれ! わたしをわかれ! わたしをわかれ! わたしをわかれ! わたしをわかれ!」と絶叫する下北沢の狂犬女芸人、ミツコ……。 妻を殺して躁鬱病にかかり新興宗教をはじめてしまう、壷井……。 主演自分、監督脚本自分、観客自分、のビデオ映画を撮り続ける井口……。 「ああ、お前の狂気と不幸はわからないけれども、わからないなりになんとなくわかるよ」とばかりになぜか狂える彼らがふしぎと飲みこめてしまう。 そして、「ああ、現代ってこんな感じで混沌として陽気に狂っているよなぁ」と妙に納得させられてしまうのだ。 わたし達は常にどこかで狂っている。 何かに感性を磨耗させ、恐ろしいことを「当たり前だ」として飲みこんで、それに気がついていないだけの話で、誰もが静かに狂っているのだ。 この小説を読んでいると、そんなふうにすら思えてくる。 ―――なぜ作者はこれらの登場人物にへ共感の触手をのばし、読者へわかりやすくプロデュースするのか。それはやはり『愛』なんじやないかなぁと、思う。 作者はきっとこの物語と物語の登場人物を愛し、この物語のように狂い混沌とした「今」という時代を愛しているのだろう。その表れと私は感じた。 松尾スズキというのはなにもかも絶望しきっているくせに、愛を信じている厄介なやつなのではないか、とわたしは思った。 この「よくわかるわからなさ」と、それに対する作者の愛を味わうだけでもこの小説は意味があると思う。 ◆ それにしても、この読み終わったあとに訪れる妙に晴れがましい不幸感というのは一体なんなんだろう。 まごうことなき不幸。どこに出しても恥ずかしくない堂々とした不幸。胸張っていている不幸。ザ・キング・オブ・不幸。 「でもいいじゃない、不幸。不幸、オールオッケー。全部受け入れちゃおうじゃないの」そんな言葉すら聞こえる不幸。 絶望しているのになぜか多幸感いっぱい。荒廃としているのになぜかとっても明朗で快活。 「健康的な死体」のようなこのアンビバレンツ感。 それは極めて現代的なんだけれども、それをそのまま受け入れるにはなんだか、ちょっと怖い。 わたしは、まだどっかで暖かいものを信じているし、救済を求めている。こんな世の中であって欲しいとは思わない。 あまっちょろーい、ぬるーい幸せをどこかで信じている。 たしかに……。 わたし達はいつか意味もなく不様に死ぬためだけに生きている虚無の供物にすぎないかもしれないし、 私たちが「生きる」ということは、その事実を受け入れられなくて不様に自分を持て余して余計なことをしているだけのことなのかもしれない。 ――この言葉を晴れやかに否定するほど今のわたしは能天気ではない。 ……まあ、でもさ。 絶望したって生きているから生きているんだし、ま、それでいいんじゃね。 ひとまず生きていけばいいじゃん、不様に自分を持て余しながらさ。生きていけるところまで生きていけよ。 ―――これが作者のメッセージなんじゃないかなあ、と私は思った。 ◆ あ、このサイトらしく―――「June」ポイントはあったのか? というとありました。ありましたよ、ボス。 フクスケの子である美しくも幼い双子の兄妹ヤマコとタケル――二人はいわゆる貞操観念がナチュラルに欠如していて、近親相姦をこなすのはもちろん、相手かまわず少女・少年売春をして、それで生計を立てている。二人はお互いが鏡写しのように同じになることを希求して止まないのだが、 二人は壮絶な最期を遂げる―――ま、この小説の登場人物のだれもが壮絶でありながらも虚無に帰趨するだけの運命を背負ってしまうんだけれどもね。 突然変異を起こし、空気感染するようになった死の病、ヒヒ熱(―――感染後数日で発症。発症後は大量の血を体の穴という穴から吹き出しながら、100%近い確率で人を死に至らしめる病)に罹ったタケル。 テレビ局のスタジオの隅で二人は全裸で横になっていた。遠くから見ると、まるで一体の赤いズルズルした複雑な生き物のよう。 ヤマコはタケルに抱きつき、口元から流れる血を舌で舐め、すすっては、なにか呪文のようなことを唱えている。聞こえなくてもフクスケにはわかった。 体中から血を吹き出しながら、血だるまの形さえもうさだかでない肉の塊となって、愛し合う。 ―――これが愛なんだな。そのシーンには不覚にもぞくぞくした。 あぁ、他にも凄いシーン、凄い科白いっぱいあるんだよなあ。 1個説明したらいっぱい説明したくなっちゃったよ。ってそれやるとキリがないので、読んで読んで、読んでみて。 今、パッと思い出したのでいいなって思ったのは、 ――「(わたし達は)平等に大した価値がない」 って科白。 ちなみにこの作品は彼の劇団「大人計画」で今まで演った芝居やら団員やらが作中にメタフィクショナルに使われていて、 重層的な意味探しという点でも面白いのだそうだけれども、それを知らなくってもまったく問題なく楽しめます。 |