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紫藤抄

黒い物語をあなたに


前回の銀谷時無さんと全く正反対の位置で星矢アニパロを描いていたのが彼女ではないのかなあ。
ということで、今回も永らく予告にもあった紫藤抄さんの紹介。

星矢連載時の88年頃から星矢パロでの活動を開始し、私の手元にあるもので最新の作品集が2000年8月の「思考スル肉片」だから、この人も長くこのジャンルで執筆活動している(た??)人です。
途中でワタルやら、KOFやら、筋少、B-Tなど、色々な本を出していましたが、長く星矢パロを続けいていました。―――今も描かれているかは不明、そういった消息が詳しい方はご一報を。

彼女の作品ははっきりいって「聖闘士星矢」という作品とはほとんど関係ありません。
初期の作品はどうなのか知りませんが、91年発行の「悲しきダメ人間」以来、星矢のキャラを援用した作品ではあるものの、全く独自の世界を作り上げてしまっています。

まず、「星矢」だとか、「氷河」ということになっているキャラ達の造形は指と関節がなく、目もぽちっとした黒丸で、口はいつも半月の形で表情がないし、と、つまりまるでぬいぐるみのようなのですよ。
しかもそんなファンシーな彼ら達が繰り広げる話はとってもダーク。
表面的な可愛さとうらはらの黒っぽい陰鬱な話、「本当は残酷なグリム童話」的な不気味な輝きを紫藤さんの作品は放っているのです。
例えば星矢アンソロジーにも収録された「悲しきダメ人間」所収の2ページの作品「缶詰工場の君と僕」はこんな話です。

Part1

「僕と恋人は缶詰工場で働いていたけれど、ある日機械に飲み込まれて」
高速で旋廻するミキサーに飲み込まれる瞬、回る歯車。
ばらばらになる瞬の四肢――それを見つめる氷河(人形だから無表情)。
そして出てきた猫のエサ用の缶詰。
その缶詰を猫に食べさせる氷河。
「だから僕しか知らない」
「この猫が彼女自身だということを」

Part2

「僕と恋人は缶詰工場で働いていたけれど、ある日機械に飲み込まれて」
高速で旋廻するミキサーに飲み込まれる瞬、しかしそこに手を差し伸べる氷河。
「僕は助けに飛びこんだ」
回る歯車。ばらばらになる二人の四肢。
そして出てきた猫のエサ用の缶詰。
「僕たち二人はまぜこぜになって」
「二人だけの世界に暮らすことになった」

漫画を文章化するのは難しいんですが、まぁ、こんな話を書くのですよ。(―――確かこの話、有名な純文学が元ネタであると思んだけれど、思い出せない。知っている方いたら教えてください)

他にも、兄を滅多殴りにして殺してしまった瞬の身元引き受け人として現れたのはなぜか頭に紙袋を被った僧侶であった、というオープニングで始まる「ふくろぼうず」(「午後の遺言状」所収)、 紫龍の作った星矢の脳みそ入りの豆腐を食べてしまった瞬が星矢の記憶を取りこんでしまう「ウミベノキオク」(「精神と肉体の病人」所収)、 地下鉄のホームの下にある横穴で、死んだはずの氷河や星矢、行方不明のままの一輝と出会ってしまう「もぐらもち」(「猫の逸話」所収)、 悪夢にさいなまれた末、自らの左手をミキサーにかけてしまう「見憶えのあるサラリーマン」(「思考スル肉片」所収)、 また筋肉少女帯の「夜を歩く」をモチーフにした「夜を歩く」(「悲しきダメ人間」所収)、 安倍公房の「箱男」の一節をモチーフにした「貝殻草」(「青春の殺人者」所収)、 などなど。
どれもこれも強烈に負のパワーを感じさせる作品ばかりなのです。
しかも、ただのおどろおどろしいだけでなく、妙に作品全体に透明感を感じさせるのだから厄介。
つまり、作品としてものすごぉーくできているのよ。ただ暗い子ぶっているってわけとは話が違うわけです。
感じとしては、文学だったら萩原朔太郎とか中原中也、漫画で言うなら岡田史子や初期の高野文子とかかなあ。
それは孤独というよりも孤高。透明で澄んでいて、未踏峰の雪山の麓の湖のように誰にも知られず悲しく煌いているのです。――といったら褒めすぎ??
一番好きなのは、「午後の遺言状」所収の「さくら」。こんな話です。


――仕事で疲れていたのだろうか。ある日、朝の通勤ラッシュの人いきれに酔った瞬(山本ゆうた)は思わず知らない駅で降りてしまう。
その駅は「さくら」。急行も止まらない駅である。木造のひなびた駅舎、改札には今時珍しい赤電話があった。
会社へ連絡を入れよう、そう思ってその受話器を取るが、会社の電話番号が思い出せない。何度も思い出そうとするが出てこない。必死に思い出そうとするうちになんだかどうでもよくなってしまい、受話器を置く瞬。
彼は諦めてとぼとぼと駅の周りを散策する。青々とどこまでも広がる田園風景、遠くに見える鳥居とその奥にこんもりと広がった鎮守の森、そこはまるで記憶の彼方の昔の時代にタイムスリップしたような懐かしい風景が広がっていた。
と、そこに彼を呼びとめる声、その声の主はヒラサカセイヤ、彼の小学校の同級生だった。彼は今ここで暮らしているという。
懐かしさにいっぱいになりながら、二人は野面を見下ろせる小高い丘の上へ向かった。
今の近況などを話し合ううち、不意にセイヤが切り出した。
「お前もここで暮らさないか」
「ここだったら人の下でせかせか働かなくたって畑仕事だけでのんびり暮らしていけるクダラナイ会社務めなんか辞めちまって一生穏やかに暮らしていけるのだ」
そうかもしれない、と彼は思った。が。
「いや、僕はサラリーマンでいいよ」
「どうして!?」
「どうしてって……定年退職して退職金も年金も欲しいからさ」
その言葉に手をわなわなと震わせて怒り出すセイヤ。
「お前なんてクダラナイ奴だ。お前はただ変化を恐れているだけだ! なんてクダラナイ! ちっぽけな!」
「ふつうに高校に通って四大に行って、サラリーマンになる。ふつうの人と同じように、人の下で働いて。みんなみんな同じ顔だ。同じ方向へ歩いていくのだ。俺には耐えられぬ!!」
「ヤマモト、お前はもう行ってしまえ!」
「ヒラサカ……」
「行けったら!」
何が彼の怒りの琴線に触れたのか、ヤマモトにはわからない。
と、そこに一匹の犬がヒラサカに纏わりついてきた。
「俺んちの犬だ」
しかし、その犬はどこか見覚えがあった。
「(おや……、僕はアレと同じような犬を昔飼っていた。もっとももう10年も昔に死んでしまったが。)」
「犬くらい俺にくれたっていいだろう……」
セイヤがポツリと呟いた。
「えっ」
「行け、ヤマモト、もう来るなよ」
ここで記憶が途絶えた。
気がつくと駅のターミナルのベンチにいた。
このモノローグで物語は終わる。
「そういえば、どうして僕はヒラサカに会った気がしたのだろう……。ヒラサカの奴は中学の時に首をくくって死んでしまったのではなかったか……」――――


これだけの独自の世界を持つ作品は既に「アニパロ」という範疇を超えているといっていいでしょう。
実際、瞬であるはずのキャラの名前がいつのまにか「山本ゆうた」になっていたり、氷河が犬になってしまったり、星矢の苗字が「ヒラサカ」になったいたりしますし。
――ちなみに作者は、――「ゆうた」の本名は「城戸瞬」なのだが、兄の一輝が旅に出たまま返ってこないので適当に養子になって、「山本ゆうた」という偽名を使っている。「星矢」は死ぬとヨモツヒラサカに行くので「ヒラサカセイヤ」になった――と説明しております。なんだそりゃ。
銀谷時無さんのアニパロが原作品に対して忠実たろうということを最も留意しつつ描かれている作品群のひとつだとすれば、全くその逆で原作のイメージから大きく離れ完全に自分の領域の作品に作り変えてしまっているのが紫藤抄の作品です。
――同じアニメを対象にしたパロディー作品でもここまで作品の方向性のレンジが広いというのが、同人誌の醍醐味でもあります。

とはいえ、作者の愛という意味ではまったく変わらないと私は見ましたね。はい。
なんでこんな原作と全くかけ離れたキャラクターでまったくイメージとは違う話を描いているのか、というのは多分紫藤さん自身もよくわからないんじゃないかなぁー―。
ただ、こうして自分が自然なままに思いをぶつけてしまったら、こうした作品を生んでしまった、というような感じがする。
よくわからん世界だけれど、これらのキャラや物語もひとまずは星矢を見つづけているうちに生まれてきたモノには違いないし、まぁ、こんなのも世の中にひとつくらいあっていいかな。―――という感じで発表しているのではないのでしょうか。
作品と自分に対して素直で、作品に余分な汚れた部分―――読者への媚とか、人気取りとかそういったものね、がないという意味では銀谷さんと同じともいえますが。
(―――私、どんな作品でも、清廉な作品が好きだっていうことに最近気がつきましたよ。下司の勘繰りを撥ねつけるようなまっすぐな作品ね。)
ともあれ、ここまで独自の硬質で清澄な世界を見せられたら、どんなに原作から離れようとも頷くしかありません。

このブラックで孤高な世界をこれからももっと見てみたいものです。私にとって、是非とも描いていて欲しい人の一人が彼女なのです。


2004.01.29


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