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中森明菜 「SHAKER」

官能の果てに開いた明菜の「まことの花」

(1997.03.21/MCAビクター/MVCD-38)

1.満月 2.Spicy Heart 3.夜の匂い 4.MOONLIGHT SHADOW〜月に吠えろ (Album mix) 5.おいしい水 6.赤い薔薇が揺れた 7.APPETITE〜HORROR PLANTS BENJAMIN 8.夢みるように眠りたい 9.桜 10.風を抱きしめて 11.月は青く 12.MOONLIGHT SHADOW〜月に吠えろ(Single ver) 13.APPETITE(Single ver) 14.SWEET SUSPICION (※12〜14は再発売盤のみ収録)


いいなぁ。文化的誤爆ってのは、いいものだ。今回は97年作『SHAKER』の話。

このアルバムは『Dolce』というタイトルとテーマで制作が進んでいた。明菜は温かく優しいアルバムを作るつもりだったらしい。 この頃インタビューなどでは「あなたのことが好きですよ」と素直にいえるような歌を歌いたい、と語っていたからきっと後の『Spoon』や『I hope so』のようなバラード中心でやさしいアルバムを作るつもりだったのかもしれない。
が、「DOLCE」というテーマで発注をかけて集った楽曲は明菜がイメージするものとは大きく違うものだったそうだ。
とはいえ、集まった曲はどれもいいし、全体でみると、まるでシェーカーで程よく混ぜられたカクテルのように様々なタイプの曲が混ざり合いながらきちんと統一感がとれている。そこでタイトルを「SHAKER」とかえてリリースすることにしたという。
でも、このアルバムのタイトルは『Dolce』のままで別によかったんじゃないかなとわたしは思う。明菜は多分「DOLCE」のもう一つの意味を知らないのかもしれない。

「DOLCE」はイタリア語で「とても優しい、穏和、甘美、柔和」という意味がある。very sweetってことね。これは音楽用語にそのままなっていて、奏者に「そのフレーズはもっと柔和に」という時に「そこをもうちょっとドルチェで」といったりもできる。――――歌手である明菜はここで「ドルチェ」という意味を知ったのだろう。また、その甘さから、転じて、イタリア語でお菓子・デザートって意味にもなっている。日本にはこの「菓子」の意味が一番通っているんじゃないかな。
総体的なイメージとしては出来立てのパンにのせた黄金色の蜂蜜がとろっととろける様子、イタリア人の老指揮者が指揮する裳裾を引きずるような弦楽、宵闇にまぎれてイタリア男が女性の耳元でつぶやく口説。つまり美と愛と幸福に首の丈まで満たされむせ返るほど甘美な瞬間、それが「DOLCE」。
が、その甘ったるさが果てまで極まるとそれの甘さは転じて頽廃感、翳り、妖しさにまで行きつく。それがもうひとつの「DOLCE」、「La dolce vita」の「DOLCE」である。
「Dolce vita」直訳すると「甘い生活」。がこれには「(刹那的な快楽に溺れた自堕落な)甘い生活」という意味がある。
それは甘美さの果ての頽廃。限りない欲望のすえに広がる虚無の世界である。これが「DOLCE」という言葉の意味のもう一方のダークサイドである。
明菜は巨匠フェリーニの名画「甘い生活」は見たことないのかな。「DOLCE」にあるダークな部分を知らなかったとみえる。
が、たぶん発注を受けた作家の多くはこれを知っていたのではないだろうか。―――少なくともフェリーニの「甘い生活」くらいは見ていたのだろう。
よって、明菜の意図しない陰影の深い様々な「DOLCE」を表現した楽曲が集った、そしていい盤がひとつ生まれたわけである。いやぁ、誤爆はいいものだ。

ひたすらに甘い楽曲、その甘さが頽廃すれすれの所まで行きついたあやうい楽曲、甘さと渋み、苦味が交じり合ったような楽曲、様々なタイプの甘美さがこのアルバムでは表現されている。 その甘美さのコントラストの向こうに今の中森明菜の素顔が垣間見える、そんなアルバムになっている。つまり、このアルバムは「帰ってきた『BITTER&SWEET』(―――85年作のアイドル時代の彼女の集大成の名盤)」ともいえるわけである。
『BITTER&SWEET』のように、収録されている楽曲のどちらが「甘」でどちらが「苦」かを分けてみるのも一興かもしれない。
「満月」「Spicy heart」「桜(びやく)」などは「甘」かな。となると「おいしい水」や「夜の匂い」、「赤い薔薇が揺れた」は「苦」だろうなぁ。



さらによく見てみると、このアルバムで表現されている甘美さがひとつのテーマでくくられていることに気付く。
ここに表現されている「甘さ」はほぼイコール「官能」である。恋の様々な瞬間にある、ある時は炎が燃え立つように、ある時は蜜蝋が溶けるように、体の奥底から湯泉のようにわき上げてくる熱を伴った性の情動である。
中森明菜にとっての甘美な瞬間とはそれはそのまま色事そのものということなのだろう。つまりこのアルバムの「DOLCE」とは恋の真っ只中にある官能の「DOLCE」である。
それは恋によってはじめて目覚める眠り歌姫、中森明菜の真骨頂のテーマといえよう。
つまり20代の明菜の決定打『Stock』『Femme Fatale』の世界の延長という側面もこのアルバムにあるといえるだろう。


甘美さが官能であるとするならば、では、もう一方の苦味、恋の真っ只中でひたひたと押し寄せてくる苦味とは……。それは恋から醒めた後に訪れる「現実」なのではなかろうか。

頽廃すれすれの官能美と乾いた現実とのせめぎあい、それがこのアルバムのテーマといえる。そしてそれはさらに彼女の歌手としてのテーマそのものといえるのではなかろうか。

乾いた現実が押し寄せくる速度よりも早く、現実の確かさよりも深く濃密に。彼女は「官能」という糸を撒き散らし、聞き手をそして自らを堅牢で甘美な幻想の繭の中に閉じ込めようとする。 それでも醒める一瞬、そこに横たわるのは死体のように冷たい現実。 濃密な恋の業火とその果ての虚無の白い闇―――これがこのアルバムであり、そして中森明菜という歌手のテーマそのものだとわたしは感じる。


それら「官能」と「現実」の作品ごとのうねり、せめぎあいの果てに中森明菜はひとつの境地に達する。
ラスト2曲で写し出させる素顔の中森明菜の姿に注目したい。
ひとつが「風を抱きしめて」。もうひとつが「月は青く」である。


「風を抱きしめて」

これは中森明菜の日常の姿ではなかろうか。歌手・中森明菜ではなく、ひとりの女性・中森明菜からみえる日常の風景を歌っている。
過酷な生と性を乗り越えた末のおだやかな日常―――
朝。隣で眠る恋人の頬に口付けして帰路につくひとりの女性。ゆっくりとした速度ではしる車から見えるのは夜明けの物静かな街の風景。そこに昔聞いた歌がラジオから流れる。


昔聞いたあのバラード 不意にラジオから流れる
いつも涙こぼれたのに 今では不思議ね 口ずさんでいる

(作詞 まつざきゆうこ/作曲 島田昌典)

  以前のような情欲の嵐、恋の業火に溺れる彼女の姿はそこにない。かといって彼女は冷たく醒めているわけではない。恋人との間にもさりげない距離をとりつつも、彼女は恋に充足し、物静かに満ち足りている。
全ては変わりゆく。恋を失うように、喜びが色褪せるように。絶望した夜もいつか明けて当たり前のようにいつもの朝の光が訪れる。
だから、今は今の充実を静かにひっそりと味わおう。
彼女のまさしく風のように自然な佇まいは今までなかったものだ。彼女の中でなにかが変わった。それは一体なんなのか。次のラストの曲でわかる。


「月は青く」

「風を抱きしめて」が日常の風景であるならば、一方こちらは、明菜の心象風景を歌っている。
今はなき大村憲司氏のギターオーケストレーションと歪んだトイピアノの音をバックに明菜は月夜の浜辺をひとり逍遥する。

どこか遠いところへ辿りついてしまった
よせて返るリズムのようにただ生きてきたけれど

(作詞 岡部真理子/作曲 野田敏一)
誰もいない孤独な砂浜。全ては去っていった。全ては過ぎていった。今は自分にあるものは、この小さな体ひとつだけ。
しかし彼女は孤独に満ち足りている。

波にぬれた砂を確かめて歩いたら
声は遥か水平線ににじんで消えていった
月は青く  わたしは祈る
この命もやしながら あなたのこと愛していたい

彼女はこの歌で自らのうちに眠る全ての怒り、悲しみ、矛盾を静かに昇華し、浄化する。そして全ての悲しい巡りあわせとなった人々を、全ての起こってしまった苦しい過去の出来事を赦していく。
全ての赦しの果て、彼女の身の内に残るものは大いなるものへの遥かな祈念のみとなる。
海原の向こう、月の果てへ。呼吸のリズムのように波のリズムのように彼女は自然に祈り、そして歌う。

よせて返すリズムのように ただ生きていくでしょう
あなたがいなくても

ここでいう「あなた」とはまた歌の主人公の恋人か何かといったなにか特定の人物ではない。自らを対照とした時にあるすべての万物――――広大無辺に広がる「あなた」である。「あなた」は私でもあり、あなたでもあり、この歌をつまらないという誰かでもあり、聞き流している誰かでもあり、まったくその声すら届かない誰かでもある。全てから遠ざかった孤独な場所で、無限の「あなた」にむかって彼女は、祈るように愛し、そして歌っているのだ。
かいつまんでいえば無限の「あなた」とはつまり「神」である。そしてその「あなた」へ向けて祈るように歌う彼女はまさしく巫女であり、真の芸能者であるといえるだろう。――――元来、芸能は神事から生まれたということはここで今更いうまでもなかろう。

これは『BITTER&SWEET』『Stock』『Femme Fatale』といった過去を積み重ねを経て、より深化した先にようやく辿りついた宗教的秘蹟すらともなった中森明菜の極致である。
これこそが明菜の至った時を経ても枯れない芸能の真の境地、世阿弥のいうところの「まことの花」である、とわたしは感じる。
官能の果てに咲いた「まことの花」である。泥海に咲く蓮の花のように、それはあらゆる汚辱を浄化して、白く澄みきっている。


2004.09.03
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