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SMAP「世界にひとつだけの花」批判

(2003.03.05/VICL-35477/ビクター)


年末である。
この曲の批判をするというのなら、今の時期を逃したらないであろう。
ということで、今年最大のヒット曲、SMAPの歌った「世界にひとつだけの花」を今更ながら、批判する。

しかし、この曲、凄い。
年末のあらゆる歌番組などで歌われていて、チャート的にもまたまた年末にむけて上昇気流に乗り、今週のオリコンでは第七位をマークしている。
そして、なんと今年の紅白で大トリに、という話も出てきた。
売上げも200万枚を優に越し、完全にSMAPのファン層を超え、歌だけが一人歩きしている。
「泳げたいやきくん」や「おどるポンポコリン」などの何年かに一度出るお化けソングとなってしまった。
が、この曲私はあまり好ましく、思っていない。
というか、大っきらいだ。

別にSMAPを擁護するつもりはさらさらないが、歌う彼らにはなんの文句もない。
彼らに言うことは、ただ、こうした歌を歌うとやっぱりSMAPってちょっと下手っぴに聞こえますよね、程度しかない。
問題は歌の内容である。特に詞の。
ということでこれは、この曲の作者、槇原敬之に対する批判である。


今更詞の説明をする必要はないと思うが、概要を書く。
―――花屋に行ったら色んな花が咲き誇っていた。どの花も綺麗で、ひとつなんて選べない。
なのに人間たちはいつも競い合い、一番になりたがっている。
でもぼくたちだって花と同じだ。全ての人たちはが世界にひとつだけの花だ。それぞれがオンリーワンなんだ。
だから競い合ってナンバーワンを目指すなんて馬鹿なことは辞めようよ。
という内容である。

まず出だしが気に食わない。
花屋に並べられた花は商品となるべく、特別な環境で育てられた花々だ。
そのために別種である雑草は駆除され、また同じ花々達の中でも売り物にならないモノは間引きされ、剪定され、と競争に勝ち残り選ばれた花たちだけが店頭に並ぶ。
あなたの歓心を買うように、つまりは売り物になるために花達も競争させられている。
その売り物となるべく育てられた花にその事実から逃れる術はない。
例え、「オンリーワン」だと声高に花達が叫んでいたとしても、咲き悪い花、売り時を逃した花は虚しく処分されるのである。
その事実にも気づかず、花屋に行って浮かれて「どれも綺麗で選べないよ―――」と能天気に上ずっている槇原の姿は、 キャバクラにいって多くの女性をはべらせ「どの娘も可愛くって選べないよ―ー」といっているおっさんと同じように映る。

カウンターとしてかの有名曲、浜庫作品の伊東きよ子「花と小父さん」と槇原もリスペクトしているであろう中島みゆき作品「愛される花 愛されぬ花」をひとまず提示しておく。
赤い花枯れる 惜しまれて枯れる
次の春次の春 待ちわびられる
白い花枯れる 音もなく枯れる
風に乗り風に乗り 遠くに消える

あの人がただ赤い花を 生まれつき好きならば それまでだけれど
愛される花も愛されぬ花も 咲いて散るひと春に変わりはないのに

「愛される花 愛されぬ花」


多分中島の「愛される花 愛されぬ花」は「花と小父さん」を下敷きに作った歌であろうが、これと比べると槇原の歌など勝負にならない。
そのレベルは、ほとんど大人と赤子ほどの差である。

と、その花屋で浮かれる無邪気さのままに、以降「それなのにぼくら人間は」といった飛躍をする。
「ナンバーワン」への競争なんてしなくていいんだ、だってみんなが「オンリーワン」なんだから。という。

槇原がボンクラなのか、馬鹿なのか、能天気なのか、策士なのか知らないが、ここで彼が全く指摘しない部分を私が指摘する。

だいたい「オンリーワン」って「誰にとって何がオンリーワン」なのさ。
自分にとって自分が、オンリーワンってこと???
そんなのは当たり前だ。自分から見れば、自分はなによりもかけがえのないオンリーワンだ。
自分が目を閉じれば、世界は真っ暗だ。自分が死ぬことは、つまりは、この世界の消滅だ。

じゃあ、この世界にとって自分を含めた全ての人がオンリーワンってこと??
これだったら、「ナンバーワン」ってことと同じじゃない。
つまりは「ONLY ONE IS NUMBER ONE」(@郷ひろみ)だ。
だいたい競争しなくて、誰もがこの世で一番なんて言うのは欺瞞以外の何者でもない。
それに、ぶっちゃけ、同じ土俵の上でナンバーワンを目指すより孤高のオンリーワンだと世間から認められるほうが、よっぽど大変である。
そういうことが出来る人を人は天才というのだよ。
そういう作業をしろと槇原は言っているのか。

槇原の提示するこの欺瞞と矛盾はこの言葉の持つそれと良く似ている。
「人命は地球よりも重い」
このヒューマニズム溢れた言葉の矛盾に気づかない人はいないだろう。
んなあほな、人命が地球より重かったら、地球がいくつあっても足りないよ。
だいたい、ひとりの人間を救うのに地球一つダメにしても対価に値すると言うのなら、 その地球で生活しているその他、数十億の人たちの命はどうなるのよ。と。

この言葉が矛盾してしまうのは、「自分にとっての(自分の)命」「世界にとっての(自分の)命」が混同しているからだ。
この言葉を、正確に理解すると、つまりはこういう意味である。
―――自分にとって自分の命とは地球と対応するほど重いものである。なぜなら自分が死ぬと言うことは自分にとって「世界の崩壊」とイコールなのだから。
そして、自分がそうであるように、自分以外の全ての生きとし生ける者もそれぞれにとってそれぞれの命は世界と対応するほど大切だと、そう思っているものである。だから、地球の重さと同じくらい大切な自分の命を思いやるのと同じくらいその他の命も慈しみ合い大切にしましょうよ。

しかし、これではあまりにも長いし、説明的であるから、「人命は地球よりも重い」と短いコピーとなるわけである。
得てして言葉は短文になればなるほど、誤読の入る余地が多くなるものである。これはそういった矛盾なのである。

ではこの歌の『「ナンバーワン」より「オンリーワン」』は正確にはどういった意味なのか、というと、意味なんてない。
多分、そのまんまなのだろう。
だって、槇原自身がそういった矛盾に気づいてないんだもの。
槇原はきっと自分が個性的で世間から認められたオンリーワンの人間だと割と本気で思っているのだろう。

なぜなら、――「自分にとって自分はオンリーワンである」しかし、「世界にとっての自分は取替えの利く、代わりなどいくらでもいる人間である」―― この視座が全くといっていいほど、描かれていないからだ。
というか、きっとこういう認識が彼の中にないのだろう。

しかし、これこそが内面世界と外世界の差―――「自分にとっての自分」と「世界にとっての自分」の差、そのものである。
そしてこれは、自己というものがあり、普通の認識力がある者であるなら誰も思春期までのある時に気づく事実であり、ひいてはこれこそが存在というものが持つ矛盾そのものである。
―――自分にとって自分はこんなにも重要なのに、自分以外の他の者にとっての自分は、さしたる意味のない、いてもいなくても大して変わりのないものにすぎない―――という矛盾。
その差、矛盾を埋めるために人は闘い、オンリーワンだったりナンバーワンを目指したり、自分だけの神だったり愛だったりを探したり、相手を尊重したり、慈しみという心を持ったりするのである。
これは、「自己の存在」という意味を賭けた闘争であり、そして、時にその争いは生命すらも取引の対象となりうる。
これが不条理なこの世というものである。
誰もがこの世に生きるために――自分が自分であるために、闘争の中、生きているのである。
この部分を彼は全くわかっていないように思える。
槇原、頭が寝ているとしか思えない。

だいたい、花すらも花屋で「自己の存在を賭けた闘争」をしていると言うのに、暢気にどれも綺麗だなあ、などと、そのために絶たれた花の命も知らずに、上ずっているのだから仕方ない。
これは、思想性以前の問題である。
彼のなんともうすら甘い認識力よ、彼は自分のことしか見えないのか。
であるから、結果――「自分って超大切、自分は世界にひとつだけのオンリーワン、そんな自分っていいよね」――という自己愛だけが、無駄に溢れ返り、それがただひたすらわだかまっているだけのなんとも無残な曲となってしまっている。
と、私は感じる。

ついでにいうが、これは何も槇原だけが持つ無残ではない。
戦後、教育現場や、メディアを中心に日本人のメンタリティー全体にうっすらと漂った甘い「個性重視意識」の持つ無残そのものである。
「個性重視」の教育だとか、少数意見や子供の意見もを尊重、みたいな甘い人権意識の上に成り立っている「個性万歳思想」の無残と同質である。
確かに、金子みすず的「みんな違ってみんないい」世界というのは、それはそれで耳障りがいい。
だが、では社会という部分でどのようその個性主義が関っていくのかというといつもそれらは、話がぼやけてしまう。
結局、「個性的な自分っていいよね」という自己肯定の段階で思考停止しているからだ。
――個性主義は暴走すると、反社会のアナーキズムと衆愚政治に陥る。そのブレーキとハンドリングはどうとるかということなど、この手の話ではまず出てこない。
ということで、教育現場では、せいぜい、運動会の徒競走で順位をつけなかったり、通知表の成績を5段階からぼんやりしたものに変えるくらいのおためごかしぐらいが関の山となってしまっている。
個性主義そのものを退けるつもりはないが、結果起こった、教育現場にあるああいった馬鹿馬鹿しさと同質の欺瞞がこの曲にはあって私を不愉快にさせるのである。


この結果からいえることは2つである。

まず槇原自身についてである。
この曲に全体に漂う姿勢というのは、「どんな時も僕らしくあるために好きなものは好きという気持ちを抱きしめていたい」という自己愛の強さだとか、 「もう恋なんてしないなんていわないよ絶対」のような婉曲的な女々しさや、「だけど信じている信じているぼくを信じさせて」の押しつけがましさと何ら変わらない。
それらは、自分の延長に世界がそのままのっぺりだらだらと広がっている、と勘違いしている自己愛の強い、自我の拡大した、つまりは認識不足のはた迷惑な人間の言葉である。
つまりは、私がいいたいのは、おクスリやって捕まって、反省しますっつって戻ってきたけど、槇原、お前、全然反省してないじゃん、ということである。
全然、自己言及の過程がないじゃん。昔のまんまじゃん。と。
もっと自分を見つめろよ、と。

もうひとつは、これをプロパガンダとして使った左翼側の思想力の弱さである。
イラク戦争の反戦歌として、この歌を取り上げていたが、これを使うようでは、つまりはミーイズムの権化のような槙原敬之を立てるようでは、舞台装置が見え過ぎだということだ。
反戦プランの総体に、槇原敬之という作家を据えるには、あまりに彼は大根である。―――舞台上にSMAPを据えたのは正解であろうが。
大体この詞、前半の花屋の部分は完全に資本主義の魔力の隠蔽という方向にベクトルが向かっているではないか。
リベラリストであると自認している私であっても、こんなメッセージソングでは逆効果に思える。
だが、このようなだらしがない歌が今年最大のヒット曲となったということは、つまりは右傾化の兆しが見えるといわれる日本であるが、まだまだしっかり左寄りなのである。
その事実を再認識するという意味では、2003年という今を象徴した歌といえるだろう。


2003.12.28


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