去年のやおい事情において最大のトピックといえば、「小説JUNE」の休刊であろう。やおい文化の大きな源泉のひとつの終焉。 そこにやおらーとしてある一定の感慨はあるものの、とはいえ近年の「小説JUNE」を買っていない私がとやかくいうものではない。 私の部屋の押し入れにもロートルのやおらーのほとんどがそうであるように「小説JUNE」と「JUNE」が数十冊眠っているが、その年号は全て昭和のものである。わたしが求めているのは一時期古本屋で漁ったバックナンバーにある「JUNE」であって、今の「JUNE」ではなかった。 コンビニエンスにセックスを語り、ゲイの男性と同じような視点(―――に私には見えるときが多い)で男性の体を愉しむ、今の「ボーイズ・ラブ」という名で呼ばれるジャンルを私はあまり愉しむことが出来ない。(―――とはいえ目の前できゃっきゃ愉しんでいる若いやおらーに昔の「JUNE」はねぇ……、などと講釈たれるつもりもさらさらない)。 しかしながら、かつて「JUNEモノ」「耽美」という名で呼ばれ、変じて今は「ボーイズ・ラブ」と呼ばれる「女性のための男性同性愛」というジャンルは、その呼称の以前と以後のあいだに少なからず違いがあるようにみえ、そして私は今の姿に少なからずも違和を感じすにはいられない。 そうした今のやおい事情と昔のやおい事情に挟まれるように方向性を失い「JUNE」はその役割を終えたのであろう。 では「耽美」「JUNEモノ」といわれたかつてのものと「ボーイズラブ」と呼ばれる今のものでは何が違うの、と問われるとこれがなかなか悩ましい。 一言でいえば「書き手の情念の重さ」なのであるが、その情念の質を腑分けしようとするとわたしはすぐに思考の樹海に入ってしまう。 昔のやおいって、JUNEってこういうものだったんだよ、と1冊まるまる読んでくれればわかりやすい本があるのでその紹介で済ませたいという気分になる。 ということで、今回は榊原史保美のデビュー作が掲載されている「青月記」の紹介である。 榊原史保美(当時は姿保美)はJUNEが生んだ最初のJUNE小説家であった。 82年の「小説JUNE」第1号に投稿最優秀作に選ばれたのが彼女のデビュー作「蛍ヶ池」である。 もちろん、それ以前も「JUNE」本誌で小説の掲載はなされてはいたのだが、神谷敬里、ジュスティーヌ・セリエ、滝沢美女夜、アラン・ラトクリフなど彼・彼女らの全てが栗本薫の変名であった。(―――これも今考えるとなかなかアホらしくていとおかし) しかし、そこに榊原の登場が1つの契機となって他の作家も多く引き寄せることになる。 第2号からは森内景生、吉原理恵子が初登場(ただしこの時点での2人の小説は大変拙い。吉原など目を覆いたくなる)。 第4号ではよるのはせお、大和志保が登場。第6号では原田千尋、深沢梨枝。と、初期の「JUNE」を彩る作家陣が次々と現れることになる。そしてこの頃になると「小説JUNE」も隔月刊として定期化、また「JUNE」では中島梓の「小説道場」がスタート。ここから数多くのやおい小説家を輩出するようになる。 ちなみにこの頃小説挿絵を担当していたのは小林智美、加藤俊章、山田章博、みずかみゆり、ちばひさと、波津彬子、蔦峰麻利子などである。あーなつかし。 (―――ってこの部分を書くのに、久しぶりに当時の「小J」を手に取ったぞ、おい。) デビュ―と同時にJUNEの人気作家となった榊原史保美は、そのまま「小説JUNE」で作品を上梓する。第2号に「カインの月」、第3号に「No smoke without fire」、第7号からは長編「龍神沼綺譚」を開始。 1985年には「龍神沼綺譚」の単行本がこれまたJUNE小説家としてはじめて発刊、更に翌年には、デビュー作「蛍ヶ池」を収めた短編集「青月記」も出版される。 しかし、この2冊の本を上梓した時点で彼女はいわゆる真性のJUNEとは少し距離を置くようになる。 基本トーンとしてあるJUNE色はかわらないものの、その後はミステリー仕立てのエンターテイメント色の強い作品や、哲学的な深甚なテーマに突き進むようになる。 これが、初期の榊原史保美と「青月記」の周辺のひとまずの説明である。 では内容。 「青月記」には「蛍ヶ池」「カインの月」「奈落の恋」の3篇が収録されているが、その初期の2作はどれもが、性愛の向こうにある死を描いているように見える。(――――「奈落の恋」はあとがきで作者が書いてあるように、それまでの作品とは違う意味合いをこめて書いたものであり、これは後期の作品に繋がる系譜といえるので今回は触れない。) 彼女はデビュー作から一貫して、複雑で屈折した家族同士の愛憎を物語の真ん中に用意し、そのなかで孤立しきっているひとりの少年の視点で物語を紡いでいく。榊原文学の主軸はいうならば「家族と少年との確執」である。(―――そういう点においては萩尾望都と極めて似ている) その確執は後期の作品になるにつれてより峻烈になり、それに伴い哲学的宗教的な救済の方向へと物語を力強く描くようになるのだが、今回取り上げる初期の作品はそのどれもがそうした自己に宿る孤独や断絶や虚無の闇は宗教的に昇華するのではなく、性愛の淵に投げ込むことによって無化しようとしているようにみえる。 性の快楽に身も心もどろどろになってまざりあって、このまま自も他もなにもない闇の向こうへとかき消えてしまいたい。そんな強い欲求が垣間見える。 「カインの月」の目の前の信じがたいカタストロフに心壊れ、闇の象徴のような妖しげな年上の庇護者の愛撫を受けるだけの抱き人形となった少年。 「蛍ヶ池」のいままで決して愛を交わすことのできなかった最愛の者とともに水底に沈む少年。 彼らの不幸な結末は決して不幸ではない。もうなにも迷うことのない、二度と孤独を感じることのない、自己を手放した死の彼岸の向こうでただ一身に愛を享受することができるのだから。こんなメッセージを作者から感じ取ることができる。 当時のいわゆる典型的「JUNE」だなと思う部分をこの時期の榊原作品の物語の過程から箇条書きしてみる。 ・主人公の少年は家族に自我を圧殺されて、絶望している。 ・その内圧の果てに自身の肉体の死をどこかで希求するようになる。 ・その少年はあるきっかけに年上の庇護者から性愛の快楽を知るようになる。 ・少年は性愛の快楽を階に彼岸の岸へと渡るようになる ・その先はエロスとタナトスの溶合った濃密な虚無(=死)である。 他にも父性の不在であるとか、畸形化した母性であるとか、闇の象徴としての第3者の庇護者とか、芸能・神事・王家の一族など聖的で選ばれたものの世界が舞台など、色々あるが、まぁ、骨格を洗い出すとこんなものではなかろうか。 つまりは当時の「JUNE」小説は「性愛と死が渾然一体となって主人公を飲みこみ、一種の救済に近いカタストロフを読む者に与える小説」ということができるだろう。 この時期のJUNEは「性愛が一種の救済たりうる」という幻想を読者に投げかけたわけである。 これは榊原作品だけではなく、当時のやおい指数の高い少女漫画ややおい小説の実に数多くにつかわれる設定なりテーマであった。 それだけ当時の榊原史保美の初期の作品に見られるテーマや設定、ガジェットはやおい少女にとって普遍性の高いものであったのだろう。 しかし、この「救済」が内面のベクトルではなくもっと即物的なところに向かっていったのが、以後のやおいの不幸であった。 金も地位も名誉もある年長者の男にひたすら求愛される少年愛のハーレクイン、という方向に容易くそれは転向していく。 ここにあるのは残念ながら「性愛という名の階級闘争」というありきたりで俗な――――現実世界でほとんどの女が強制参加されているもので、そのテーマで綴られる物語は安易な欲望充足に過ぎない。「救済」という言葉には程遠いというシロモノである。 このように「やおい」のありようは変質を遂げ、今やこうしたフォーマットを頑なに守り作品を紡いでいるやおい作家は絶無といっていい状況となった。 そして、細々と魂の救済をテーマに小説を上梓し続けた榊原史保美もいつしか小説を書くことを止めてしまった。 それは一方で「やおい」が人口に膾炙され普通になったことの証左ともいえるかもしれない。かつての「やおい」のような切羽詰ったものを読者のほとんどは求めていないのだろう。 かつての「やおい」はそれを享受するものにとっては「水や空気のようになくてはならないもの」であったが、今の「やおい」はエンターテイメントであり、享受する側も「あったほうがいいけれども、なくてもなんとかなるもの」という程度といってしまっていいだろう。 そこに幾許かの淋しさはあるが、しかし、それが時の流れか、と、ロートルのやおらーは静かに見守るのみである。 |