太田裕美のライバルはてっきり同期の岩崎宏美かと思っていた。 同じ「ヒロミ」という名前に、かたや上野学園・声楽科、かたや成城学園。ともにクラシックの素養があり、ともに筒美京平楽曲をかたや松本隆、かたや阿久悠の詞にのせて歌う。 歌の上手さ、お嬢様的な品よさが売り、という相似形を見せてはいたが、どうやら違うようである。 どうやら彼女のライバルは同じ「ヒロ」でも歌手デビュー以前にともにNHK「ステージ101」レギュラーであった谷山浩子のようだ。 というのも、この2枚のアルバムを聴いたからだ。 「I DO YOU DO」「TAMATEBAKO」。 いまならこの2枚のアルバムは1枚1500円という安価で手に入る。こんなラッキーなことはないので、是非とも聴いて欲しい。 ◆ このアルバムのリリース以前の太田裕美の状況を簡単に言えば、前述したしたような「お嬢様」的なパブリックイメージでデビュー。1年後に「木綿のハンカチーフ」が大ヒット、そのイメージの延長線上にしばらくヒットが続く、 「赤いハイヒール」「しあわせ未満」「九月の雨」「ドール」「南風」「さらばシベリア鉄道」……。 彼女の魅力はまさしく、彼女の清純派のお嬢様然としたルックスと、それに似つかわしい過剰なまでの少女趣味な松本隆の詞と、 それに合わせた筒美京平、松本人脈によるニューミュージック系の作家、本人によるメロディーなのだが、売上げの暫減とともに彼女自身、歌手として煮詰まりだし、81年の 伊勢正三作品「君と歩いた青春」を最後に芸能活動を休止、単身渡米する。 そして、帰国後アルバム「FAR EAST」を発表。続いて「I DO YOU DO」「TAMATEBAKO」の発表という流れになる。 ちなみに一方谷山浩子は説明するまでもないが、お茶の水大付属高時代に「ステージ101」にレギュラー出演後、ヤマハのポプコンに「おはようございますの帽子屋さん」で入選、「河のほとりに」で本格デビューとなるが低迷、「メルヘンチックな中島みゆき」のような煮え切らないアルバムを何作か制作後、81年に橋本一子との出会いで突然スパークする。 太田裕美の「I DO YOU DO」のリリースと同じ年の83年には、後に彼女の名白楽となる石井AQ、斉藤ネコに橋本を通じて出会い、80年代の谷山の最高傑作である「たんぽぽサラダ」が発表される。 太田裕美は2枚のアルバムの制作前にもしかしたらこの「たんぽぽサラダ」を聴いていたのかもしれない。この二枚を聞いて私はふとそんなことを思った。 というほどに、二人のこの時期のアルバムは似ている。 誤解のないように云うが、別にどちらかがどちらをパクっているというわけではもちろんない。 ただ、作品を通じて漂う本人のありようみたいなものが、とても似ているな、そうわたしは感じた。 ◆ ぱっと思ったのが、あ、これは「少年愛の世界」なのだな、ということ。 もちろん、ここでくれぐれも勘違いしていただきたくないのが稲垣足穂氏だとか、本物の方(!?)によるそれでなく、少女にとってのそれという意味。 つまり、「やおいの美少年」ということ。 って、ここで「少女にとっての『少年』」というものについて、書かないと話が難しいな。 えーーーっと、だ。 (――めんどくさい事を書いてしまったと後悔している、ここは限りなく蛇足なので薄目で読んでください。) まず、これをテーゼとして出しておかなくてはならないかな。 「少女」とはどうものか。 「少女」というものは「自己の肉体が男性のフェティッシュな欲望の対象たり得ることに無自覚である存在」だと、思うんだよね。 また、少年と比べて少女は自らの性的衝動に自覚する機会も少ないので、「性的な行為が淫らな欲望でなく、愛によって支えられた行為であると本気で信じることができる存在」でもあると思うんだよね。 しかしこれら「男性の性的欲望に対する無自覚さ」や「性愛というものの純粋な幻想」というものは思春期が終わりに近づくにつれて、生身の男性というものを知るにつれて、打ち砕かれてゆかざるをえないモノといえるわけで、 実際、そこで多くの少女は「少女」であることを捨て、自己の性衝動の所在を明らかにし、自己を性的な存在として受け入れ、自己の肉体をフェティッシュな欲望の器として主体的に演出するようになるわけで、 これを世間では「成熟」といい、「セクシー」といい、「大人の女」という、と思うのですよね。 しかし、そうやって自らにたえず押し寄せてくる「『成熟』へ向かうの抗いがたい波」に「いや、私は少女でいたい。清純でいたい。男性のフェティッシュな欲望などという存在に気づきたくない」と抗う者ももちろんいるわけですよ。 そうした「少女でありたい」と願う者が生み出した発明、それが「少女にとっての『少年』という肉体なのだ、と、私思うんですよね。 であるから、この「少年」はあくまで、観念の生み出した存在であって、実際の少年とは全くの別物、という。 (――もののついでにいっておくが、よく「やおい」を安易に批判する男性はゲイの方もストレートの方も「描かれている少年たちが現実とはかけ離れている」に類する言葉をよく口にするが、 それは確かにそうなのだが、少女にとってはピント外れもはなはだしいことなのなのですよ。 ともあれ、そこに描かれている『少年』はリアルとは程遠いだろうが、この『少年』になにがなんでも自己を仮託したいと思っている自分のこの切迫した事情はリアルにほかならないのです。 また、作品レベルの低い「やおい」のほとんどが過激な性描写がストーリーのメインでありながら、必ずネームに 「俺はお前が男だから好きになったんじゃない。好きになったお前がたまたま男だっただけだ」 に類する陳腐が台詞が必ずあったりするのもこのジャンルの意味が端的に現れていて、興味深く思えたりもする。 男性のフェティッシュな欲望であるとか、自らの性衝動であるとか、そう言ったものに薄々気づきながらも、それを否定し、いまだ少女的なミスティフィケーションでごまかそうとする作者と、それを楽しむ共犯としての読者の姿をここに垣間見たりすることもできるんじゃないかなぁ。 ―――って、ああっ、太田裕美から話がどんどんずれていく) ◆ ともあれ、彼女が音楽活動を休止し、渡米するまで煮詰まってしまったのも、そうした清純派お嬢様であり、「少女」であることを捨てきれない自分をどのように再構築するか、という命題をクリアできなかったからでは、と私はこの2作を聴くと思う。 そしてついに彼女はこのアルバムで「少年」という観念の肉体をみつけたのでは、と。一方の谷山浩子はデビュー時から観念としての「少年」というものを体得していたようだけれども、彼女もここで追いついたのかなぁ、と。 なにしろ「I DO YOU DO」の帯にはこのように書いてある。 (――とおもったら、帯見当たらんようーーー。たしかこんなだった思う、誰か正確なの教えて下され) 「好きなことをやったらこんなに楽しい…… 少年っぽさを残した太田裕美のニューアルバム」 そもそもこの二枚、ジャケット写真からいって、もう、「太田裕美」のアルバムって感じじゃない。 とても「木綿のハンカチーフ」を歌いそうには見えない。――ちなみに「I DO YOU DO」のアートディレクションは「タモリ倶楽部」のソラミミスト安斎肇氏。 その歌唱も、確かに太田裕美が歌っているのだが、いつもの一言一言を丁寧に発声している声でなく、ぶっきらぼうだったり、アニメのような不自然な裏声だったり、とここではイメージを一新させていて、 しかも、それらは「少年っぽさ」というので統一していて、とにかく裕美はどれもやんちゃっぽく、飛んだり跳ねたり、躍動感溢れる歌い方をしているのですよ。 ―――そういえば「南風」でローラースケートを履いたのもそういう意味では「少年の躍動する肉体」への憧憬だっんだなーーー、とふと、今気づいた。 でもって、その歌唱をよりいっそう印象付けているのが楽曲なのだが、 太田本人や、チャクラの板倉文、川島"BANANA"裕二、の仕事も素晴らしいが、なにより凄いのが大村雅朗の編曲。 全体のトーンはムーン・ライダースかよっっ、といいたくなるほどの80年代のテクノ・ニューウェーブまっしぐらっといったノリなのだが、大村雅朗ってこんなにアバンギャルドな編曲家だったッけと驚くことしきり。 だって同時期の仕事って聖子の「SWEET MEMORIES」なわけでしょ。すごいなーーーと、素直に感心してしまう (――あ、でも、ジュリーの「女たちよ」もこの時期か。なぜか、アバンギャルドでもあった時期だったわけね大村氏……)。 ◆ さらに、私にとって高ポイントなのが作詞。 山本(元)みき子こと銀色夏生が2枚ともにほとんどの楽曲の作詞を担当しているが、楽曲に負けないくらいこちらもエキセントリック。 (――これら楽曲の制作に当たって、銀色は太田に詞のストックがはいっているバインダーを「気に入ったら好きなのを外して使っていい」と丸ごと渡したらしい)。 「青い実の瞳」は両手いっぱい抱えた青い実が実は光彩が青の眼球であるかのような不気味さがあるし、「ランドリー」は薬でラリって、コインランドリーの乾燥機の中の洗濯物が、中で子供がぐるぐるまわって遊んでいるように見える、といった風情の歌だし、「花さそう鳥目の恋人」などタイトルからしてそのまんま長野まゆみの小説のタイトルのようだ。 「葉桜のハイウェイ」では唐突な「角のお店でシャンプーかわなきゃ」に妙に納得してしまう。 特に好きなのは、「パスしな!」。 どうやら軽い不義理に恋人は怒って、恋人以外とデートにいくらしい。 それを必至にひきとめる。 Oh Boy 鏡に向かって 口笛吹いて悪気のなさが「憎みきれないろくでなし」で、可愛さあまって憎さ百倍なのに、愛情表現の直截性でどこか許せてしまう。 そんな表現はさすが。ただわからないのは、ここ。 いれかわりごっこだって がまんしてさせてあげるよ「いれかわりごっこ」って、何? ここで一気に私は少女漫画的な倒錯の森にいきなり引きずり込まれてしまうわけです。 これをJune的解釈以外に解釈のしようがあるのだろうか? 誰かこの部分の正しい解法を教えてくれーー。 ◆ ともあれ、この2枚のアルバムで彼女は長き抑圧から解放されたかのように好き勝手に音楽と戯れている。 この時の彼女は本当に「奔放」という言葉が一番似合うな。 そして仕舞いにはアルバムの担当ディレクターの福岡智彦氏と結婚というおまけまでついてしまう。 発表当時は問題作視された2枚であり、セールスも話題のわりに振るわず、実際その後のキャリアと比べてみても明らかに異質なのであるが、この2枚は彼女が歌手として歌いつづけるために通らなくてはならなかった「通過儀礼」のようなものでは私は思う。 一種の繭ごもり、さなぎの時期の作品というか、そんな印象のアルバム。 じゃあ、なんで繭ごもりの時期のような作品を谷山浩子はずっと作りつづけているの?という疑問が生まれるがそれは谷山浩子の回で後述。 ともあれ「木綿のハンカチーフ」の少女歌手の時期と現在の「ママさん歌手」の間に、短い間だが「少年的歌手」というエキセントリックで刮目すべき時期あったという事は太田裕美の歌手人生の中で忘れてはならぬ事実であろう。 と、今回も偉そうにいいきって終わる。 |
2003.02.21