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永田一八 村田穣「モーニング娘。のDNA」

〜おニャンコクラブは2度解散する〜

「学園スタイル」という魔力


(2002.04.24/宝島社新書)


わっ、無内容。

芸能モノの本を読んでいると時々びっくりするほど無内容な本に出会って気持ちが萎える。
「モーニング娘。のDNA  おニャンコクラブは2度解散する」というこの本で言いたいことはこれだけ。

「モー娘とおニャン子は似ているところもあるし、似ていないところもあるよね。でもおニャン子世代はどうしてもモー娘におニャン子の幻影をみちゃうんだよね。別物だと思っているのに。それがおニャン子を知らない娘ファンにとって不愉快だったらごめんね」

だからどうしたの。つまんねぇこといっている感バリバリ。
文中、一生懸命両者の「比較」はしているけれども、「そこから何を見出すか」という著者の視座がないので「批評」には全くなっていない。イコールオタの戯言、あるいは雑誌の埋め草雑文。
全体に漂う焦点の定まらない比較と、腰の引けた書き口と、それでいながらファンにしか通じないことを前提に話を進めちゃうあたりが、いかにもオタクで、いかにも雑文ライターなのだ。 多分情報量からいって相当なファンであることは確かなのだろうが、自分の意見らしいものがなくて退屈この上ない。語られる言葉はただの「ファン内部の声=オタの声」という感じで言葉に外へ向かう力が感じられない。
だいたいモー娘メンバー紹介「一に天才二に天才、三四がなくて後藤真樹」とか「ホッタじゃなくってヤスダです」なんて書いちゃうあたりで、お里が知れる。 (それにしても娘オタの間では盛んに言われていたもののその根拠がまったく希薄で一般性の欠いた「後藤=天才」説を恥ずかしげもなく書いているあたりで「あ、この人はただのファンなんだ」とわかるというものだ。 デビューしたてのアイドル歌手を「天才」というのならばせめてデビュー時の松田聖子、中森明菜クラスの勘の鋭さや表現力あるいは河合奈保子岩崎宏美クラスの歌唱力を持っていることを証明して欲しいよ)。

まあ、企画書段階だけの内容の薄い典型的な本といえる。
―――や。逆にいえば企画書段階ではしっかり成立しているんだけれどもね。 テーマが面白いのに、なんでもっと掘り下げないのかなあ、というかその能力がないかなぁ、と思って悲しくなることしきり。

「モー娘とおニャン子のファン視点による比較論」という企画で本を作るとしたらわたしならたとえばこういう構成にする。


冒頭のおニャン子の終わった「九月」とモー娘。の始まった「九月」をリンクさせた文章。ここを大きく全面に持って来る。

おニャン子クラブは僕らにとっての「九月までの夢」だった。「終わらない夏休み」といった彼女らが夏休みにあわせるように九月で終わってしまってそれから10余年、すっかり大人になってしまって「長い夏休み」のあった時代など忘れてしまった僕らに「本当に終わらない夏休み」が現れた。僕たちの失った「九月」からモー娘。のすべてが始まった

(―――この文章は秋元康っぽいのを意識しています)
こんな文章で「『九月』からはじまった本当に『おわらない夏休み』としてのモー娘。」というテーゼを明確に提出し、全体のテーマとする。ここが第1章。

でもって、第2章で、テキスト中ばらばらと散らばる「娘。とおニャン子はなんだかんだいって別物だよね。おニャン子知らない若い娘。ファンにとってはこういう見方は迷惑だよね」という言い訳をここでぎゅっとまとめて行ない、「これからの文章は『おニャン子世代にとっての妄想的モー娘論』ですよ」と明確に読者に印象づけてこの話は以後なしにさせる。

そして第3、4章ではおニャン子と娘。の歴史、更に両者の比較を客観的かつコンパクトにまとめる。実際のテキストのような主観的な意見を織り交ぜてだらだらと説明せずに、表やグラフを活用してそのまま引用してもらえるくらいに見やすくわかりやすいデータとしてまとめあげる。

第5章ではおニャン子ファンと娘。ファンの性質・生態の類似と相違点の洗い出し。ここは多少主観的でも仕方ないが、ただ自分の味わった事実に酔うのでなく(―――そういった妙に感傷的なところがテキスト全体に散りばめられている。これは6章7章に押しこめる。)肝要なところだけをピックアップする。

第6章は、では娘。とおにゃん子にそれぞれ自分は何を見ているのか、何に惹かれているのか、何を求めているのか、という「著者の自分語り」を大胆フューチャー。

第7章では自分以外の、おニャン子世代の娘ファンがおニャン子に何を見ていたのか、そして今の娘。に何を見ているのか。というアンケートやドキュメント。
本にあるような10人ちょっとのアンケートは無意味に近い。アンケートを取るなら、100人は用意したい(――ネット使えばできるでしょ、それくらい)。それが出来ないようならば、一人のある熱狂的なおニャン子ファンであり、娘ファンである人のドキュメントを描写するか、あるいはおニャン子世代のアイドルマニアで「娘ファンでおニャン子ファンの人」「おニャン子ファンで娘ファンでない人」「おニャン子ファンでなく娘ファンの人」「おニャン子も娘もファンでない人」の4パターンに分けてそれぞれのマニアの方にロングインタビューという形式をとる。

第8章は適当にまとめ。6章7章の結果に、自分たちが見ている「夢」とは何かという個人的で感傷的な語りでもいいし、広く芸能一般の話にまで広げてもいいし。

ま、締め方はこんな文章がいいかな。


ボクたちはいつだって終わらない夏休みを夢見ていた。 それはボクらにとっての、いつまでもどこまでも許されるパラダイス。永遠の場所だ。しかし、15年前のあの時、ボクらの宮殿はあっけなく崩壊した。
『夕焼けニャンニャン』のスタッフがあの日あの時残酷な終焉を僕らに見せつけたのは彼らなりのやさしさだったのかもしれない。 「ボクたちは大人にならなければならない」
あの九月に確かに僕らはそう痛感した。いつまでも若いわけにはいかないのさ。
そして10余年の月日がたち、大人のフリをしてなんとなく生きてみた。だけど、やっぱりボクらは「大人」にはなれなかった。
ボクらにとって「大人」を生きることもまたなにかの夢のように思えて仕方なかった。そしてそれは「夏休みの夢」のような心地よさは決してなかった。

なにかの再現のように繰り返されるモーニング娘。という「新しい」夢。彼女たちはボクたちに暗に告げている。
「九月が終わっても夏休みは終わらないよ」
彼女たちは、その向こうにいるスタッフ達は笑う。本当の子供でないボクたちは彼らの手管を知っている。だけれども、と思う。
ボクたちはその夢を見ずにはいられない。夢を見ずにはいられないんだ。

この夢がいつ醒める日がくるか、それはわからない。だけれども「夢」から醒めるまでの間はこの夢を慈しみ味わいたい。それがボクらの生きる意味だと思う。
一瞬の浅い夢だけに生きるボクらの――――。


ってさすがにこれはちょっと気持ち悪いかな。

そしておまけに元おニャン子メンバーやらといった関係者へのインタビューを記載。と。

しっかし、モー娘もおニャン子も全くもってストライクゾーンにないのに(――河合その子と工藤静香以外のCD持っていないし)、ここまで構成とか考えている自分ってなんなんでしょうか。


で、だ(―――なんとここからが本題だったりする)。

この本が瑣末な表層にこだわって全然届いていない「モー娘とおニャン子」の核心的な類似をわたしが代わりに挙げちゃう。
あんね、それは「学園スタイル」。これに尽きると私は思う。

様々な性格や出自や将来のビジョンを持ったそれぞれが、たまたまなにかのめぐり合わせでひとつのひとつ教室にほうりこまれ、3年なり何なりを一緒に過ごさなければならない。
前提条件も目標とする方向も全て違う者が、ひとまず与えられた目標に向かってその場だけ一緒にのりこえていく。 そこで起こる様々な軋轢であるとか、人間関係の妙であるとか、数え切れない様々なイベント(入学・卒業にはじまり学園祭、体育祭、定期試験……)によって、船頭多くして船山に登るじゃないけれども、右往左往、紆余曲折しながらえっちらおっちら時を重ねていくという、時間と場所の限定された「箱庭のシュミレーショニズム」。 この「学園スタイル」をもっているということに尽きると思う。

この「学園スタイル」の強味ってのは果てしないものがあって、流行っていたり根強い人気を誇っているエンタメ系モノの多くはこの「学園スタイル」だったりする。

「金八」などの学園ドラマ・学園漫画はいうに及ばず、学園を舞台にした「ときめも」などの恋愛シュミレーションゲーム、ギムナジウム系少女漫画、スポーツ・格闘・暴走族などの努力・友情・勝利系の少年漫画、その成長系の政治ゴッコ系青年漫画(――島耕作とか本宮ひろしとか)、さらに戦国時代や三国志などの歴史作品、そのクリシェで成立しているヤングアダルト向けのロボットアニメ、もちろん「グイン・サーガ」あたりを嚆矢とする和製ヒロイックファンタジーも、その延長にあるRPGのテレビゲームももちろんそう。 「なんかやたら登場人物がいっぱい出てきて、思わず相関関係図とか作りたくなっちゃうような、人間関係で物語が進んでいくような作品」。これ全部「学園スタイル」のバリエーションだとわたしは思っている。――ってわけで「学園スタイル」を別名「梁山泊スタイル」ともわたしは勝手にいったりしている。

これらの「学園スタイル」が現代、爆発的に受ける原因ってのは、簡単にいっちゃえば、都市生活によってみんな共同体をから切り離されて孤独だから、ってことなんじゃないかなぁ。 フィクションにある濃密な関係性の糸で自己の空白を埋めている、というか。自己をからめとる大きな物語から切り離されて、かわりにひとつひとつの小さな物語に縋っている、というか。
ちょっと大袈裟かもしれないけれど「現実世界で学園生活を堪能できなかった者がバーチャルな『学園生活』を追体験するための作品」以上に現代社会のひとつのなにかのメッセージのような気がするなぁ、この傾向は。


閑話休題。
この「学園スタイル」っていうのは芸能の世界で言うと「グループモノ」がひとまず全部その範囲に入ると思う。

とはいえ、漫画なり小説なりの場合は作品それ自体で成立するところを、芸能だと演ずる舞台なり歌なりがあっても、それだけでは「学園スタイル」として完全には成立しない、つまり商業的に成功しないような気がする。
歌なり芝居なりといった作品はそれ自体では「そのグループの物語」を成立させる根幹とはなりえないようにみえるのね。

ってわけで、芸能モノで「学園スタイル」やるにはグループでいるだけでなく「グループの物語を紡ぐ場」が必要だ、とわたしは勝手に思っている。
実際、芸能の世界で「学園スタイル」が成立しているのって、「タカラヅカ」とか「ジャニーズ」とか「梨園」とか、「場」ができあがっているものばかり。 「おニャン子」や「モー娘」が成功したのは「夕焼けニャンニャン」なり「ASAYAN」なりの物語を紡ぐ「場」がしっかりとあったから成立したのだと思う。 ―――ま、もちろんこの時の「場」というは必要条件であって充分条件ではないので、「場」があってもコケるものはいくらでもある。「ねずみッコクラブ」みたいに。逆を言えば場があれば成立したというのもこれまたいくらでもある。82年組アイドルなんてのは明確な「場」さえあれば充分「学園スタイル」そのものになっていたと思う。各局の歌番組が緩やかな「場」として機能していたけれどもね。


ちなみに。
「学園スタイル」というのは人のアイデンティティ―に関わる部分を刺激するので、その性質上ファナチックなファンを作り出してしまいがちだけど、 とりわけ芸能モノの「学園スタイル」は成功すると(――この本の作者のような)催眠術にずっとかかったまんまといったようなファンを大量に作り出してしまうような感を受ける。

これは芸能モノの「学園スタイル」は小説や漫画と違って、現実にいる者たちを素材に物語を紡ぐからかな、とわたしは勝手に思っている。 芸能モノの「学園スタイル」は受け手の現実世界の延長線上にある、現実とパラレルに変化していく虚構なわけで、一見その虚構は現実そのものであるかように(―――だって彼ら彼女らは実際日本のどこかにいるわけだし)見えるわけだ。 ゆえに「これこそ自分の帰属すべき場所であり、本当の現実なんだ」なぁんてうっかり踏み越えかねない者が多発するのかなと、と。


2005.03.02
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