小川範子 「ひとみしりangel」
孤独なマイフェアレディ (1990.03.14/トーラス/TADX-7308) | 1.ひとみしりangel 2.一番遠い10センチ |
「いたいけ」 13歳で「涙をたばねて」で歌手デビューからこの頃までの小川範子を一言でいうならば、これに尽きる。 あまり幸福な生い立ちではなかったのではなかろうかと思わせる、子供が生き抜く為に必死に大人の世界にしがみついているような、そんな惨さがいつもどこか彼女には漂っていた。 萩尾望都の「ポーの一族」の永遠の少女、メリーベールのように、幼いながらもいくつもの人生の袋小路を見た、老女のような沈んだ眼を持つ少女が彼女であった。 「幼女時代に撮られた裸身の写真の流失」というスキャンダルも彼女らしい陰鬱で物淋しいものであったし、それは彼女に漂ういたいけさを一層真実めいた、奥深いものにした。 ゆえに彼女を見ていると、 可愛らしいと素直に微笑ましく思う一方、いいようのない不安感が群雲のように心の空に広がっていく 、そんなところがあった。 素直で頑張り屋で、可愛らしい。なにより歌と演技が10代と思えないほど上手い。 アイドルとしての素質は充分で、しかも学校もきちんと通って成績優秀だったという―――彼女はその後、ひっそり早稲田大学に入学し、卒業している。 そうした優等生ぶりも「自分の居場所を作るために必死で生きている身の置き場のない少女」と映った。 ◆ 「涙をたばねて」でのデビュー以来のシングルは全てそうした彼女の存在感を最大限に発揮した秀作ぞろいであった。 「永遠のうたたね」「こわれる」「ガラスの目隠し」「桜桃記」「無実の罪」……。 風が吹けば儚く瓦解するような繊細なガラス細工を必死で築き、守っているような、危うい純粋さがそこにはあった。 それはある一定の年齢を重ねた男性であれば、思わずみずから「あしながおじさん志願」したくなるほどで、実際、そういった大人達(―――ここでいう大人とはいわゆる業界人である)の理由なき庇護によって彼女のアイドル活動が成り立っていたような雰囲気がまた、あった。 そんな彼女の「いたいけ少女歌謡」のなかの決定打が、この「ひとみしりangel」だとわたしは感じる。 みんなひとり ひとみしり 淋しがり屋 このフレーズに漂う、ただならないリアリティー。それこそがこの歌の全てといっても過言でない。 ――怯えさせる何かが心にひそみ、どうにも人に溶けこむことできない彼女を「ひとみしりの淋しがり屋」とは見事なまでに的確な表現でなかろうか。 この歌は、ただの「幼い恋の終わりの歌」のようにも聞こえるが、 その向こうにもっと普遍的な運命というか宿命といったものが仄見える。生きるとは様々な大切なものと何度も手を離し、ひとり迷子となって歩いていくこと。 そんな寂しい事実に思わず俯いてしまう。 この魅力は企画書的なコンセプトを越えたもので、彼女が歌うからこそ滲み出て来るものであった。 いうなればそれは彼女がかけた魔法であった。 ◆ この作品以降、彼女はすこしずつ変化してゆく。 この世の荒波に翻弄されつづける無垢でパッシブでいたいけな世界から歩き出し、能動的に自らの意志をもって歩いていくようになり、大人への階段を上っていくようになる。 ―――ちなみに彼女はこの時期事務所の独立をしている、そういうところもなにか関係しているのだろうか。 直後のアルバム『彼と彼女』『好奇心』でそれは既に表れているといっていいだろう。 この2枚で、彼女ははじめて男を挑発する小悪魔を演じる。 それは「彼と彼女」「好奇心」「サスペンス」といったあたりを聞いていただければよくわかるのではなかろうか。 そしてそれから時は過ぎ去った。今の彼女は1人の優秀な大人の女優である。が、あの頃にあった魔力は、もう、ない。 子供であるのにどこか大人のような、しかし、大人の演技を無理やらさせられてしまっているようでもあり、とはいえ、どきりとするほどの女性としての成熟が時折横顔に潜み、でもやっぱり 普通の素直で頑張り屋で可愛らしい中学生にすぎず……、という不可思議で歪んだ、無垢と穢れをともに感じる、透明で複雑で幼く無邪気なのに沈んだ瞳をした彼女は、もう失われてしまった。 ◆ 後日談。 このテキストの草稿は04年年末に書いたものであるが、 その後、小川範子はデビュー以来レギュラーとして出演した「はぐれ刑事・純情派」が終了した05年夏にデビュー期のドラマ作品「魔夏少女」や「気まぐれ天使」の演出を手がけたTBSの吉田秋生氏(――同姓同名の漫画家とは別人)と結婚した。 小川範子の背負った「不幸な少女とあしながおじさんの物語」はここでエンディングを迎えた、といっていいだろう。 |