ガラス詰の壜に炎を入れるとどうなるか。 その炎はしばらくは燃えさかるものの、壜の中の酸素をつかい果たした末、いつしか消えてしまう。 小学校の理科の実験で行ったこと。 そう、いつしか消えるしかない、それも、早晩。 この炎に出口はない。 なんの話をしているか、というと、「Nervous but Glamorous」の話である。 今回は、ちょっとレベッカのNOKKOのことについて書こうと思う。
この曲、レベッカの中では五指にあがるマイベスト楽曲である。 この曲の詞のシチュエーションはちょっと凄い。 いわゆる三角関係の歌なのである。が、これ、三角関係にもなっていない。 歌のヒロインが惚れたある男はもう既にある女性を愛し、その女性もその彼を愛している。 つまり、二人は完全に出来あがっていて、歌のヒロインは勝手に横恋慕しているに過ぎない。 つまりこのガラスづめの炎は嫉妬の炎である。 眠りこんだ彼女 愛する人に殴られることを夢想するという、なんとも被虐的で惨めであるが人を愛するということの本質をついたエグイ部分でもある。 そうするしか、彼とはかかわることが出来ない。 だとしたら、それでも、いい。 愛する/愛されるという関係で結ばれないのなら、怒りによって殴る/殴られるで繋がっているだけでもいい。 この異常なまでのテンションはただ事でない。 そして以下に続く。 あなたにしか見えない 彼女の魅力が この台詞のテンションに打ち勝つ言葉はなかなかない。 誰もが、あなたが、お前が運命と囀る、所詮惚れた腫れたの歌謡ポップスを捻じふせ、吐き捨て、踏み躙るような言葉だ。 そう、恋に落ちれば、みんなそういうんだ。 なにも特別なものなんて、本当はない。それはあなただけが見ている錯覚だ。 しかし、この毒気は全て袋小路の嫉妬なのである。 それをそう思う自分が一番わかっているのだ。 だから、これはガラスづめの炎なのだ。 ただ今だけの、早晩、消して、忘れるしかない炎なのだ。 そのエゴイスティックなまでの怒りと虚しさが楽曲全体から漂っている。 愛というのはその本質において差別的である。 という言葉を不意に思い出す。 誰かを愛するということは、一方、愛さない誰かを差別するということである。 しかし、そんなことを考えても無駄なこと、どれだけ掘り下げても、ただ、愛からオミットされているという事実が転がっているだけだ。 ただ、一時の怒りに任せるしか心の行き場はないのだ。 好い曲である。 サビ後のブレイクもかっこいいですしね、TUKASAさん。 この曲はレベッカの最高傑作といえる『Poison』に収録されている。 この曲の他、タイトル通り毒気のあふれた楽曲が並んでいる。 「はっきりいってあなた ただのゴシップ好きよ 笑い方が死ぬほど嫌い」と、思わずわたしも一度は叩きつけてみたい、スカッとする台詞がいい「Poison mind」。 逃げ水のように道の彼方でゆらめくような音が美しい「真夏の雨」、自己のトラウマを昇華するかのような「Moon」、「フレンズ」のと同ストーリー上にあるであろう、友人との家出生活を描いた「Olive」。 後のガールズロックボーカルに多大な影響を与えた彼女であるが―――Chara、ジュディマリのYukiなどはその直系であろう、源流である彼女を知るにはこのアルバムがもっともよいであろう。 レベッカはこのアルバム以降、バンドサウンドとしての必要性が希薄な『Brond Saurus』を残し、解散となる。 そのなかでも、今まで楽曲中に出てきた少女たち――OliveやSueの消息が伺える「SUPER GIRL」、まだまだ夢は醒めないとばかりに日本を足蹴に飛躍する彼女の姿が見える「LITTLE ROCK」などはエピローグ的に響く傑作であった。 その後Nokkoは、シャケ(初期レベッカ〜レッド・ウォリアーズ)とおままごとのような短い結婚生活の果て、ニューヨークでひと暴れ。『ハレルヤ』『I will Catch U』といった作品を残し、帰国。その直後に『Colors』という大傑作を生む。 これは彼女の半生の総決算のような集大成アルバムであった。 そして、その後はのっこと改名したもののまた戻したり、「夜もヒッパレ」の司会をしたり、インスタントラーメンのCFに出たり、桃井かおりやキャイーンと一緒に旅番組に出たり、なんとなくレベッカを再結成したり、と迷走――白井良明を迎えた『ベランダの岸辺』はなかなかの好盤だったが。 近頃見ないなぁーと思ったら、超有名エンジニアのGoh Hotoda氏と結婚していた。 ちなみに、なぜか私はレベッカを聞いていると岡崎京子の漫画を思い出す。 岡崎本人としては、「よい子の歌謡曲」に関った者として、邦楽でなら、せめて小泉今日子であるとか、\enレーベルやナゴムのアーティストあたりを想起して欲しいと思うかもしれないが。 私の中ではレベッカのNOKKOはそのまんま、岡崎の漫画に出てくる少女たちと結びつく。 「ガールズ・ブラボー」から「東京ガールズ・ブラボー」を想起したりというのもあるが、それだけではない。 ―――重苦しくうそ臭い「愛に溢れた我が家」を飛び出したら、そこは資本主義社会という名の戦場だった。このどこまで続くともしれないエゴと欲望の戦場をサバイブしてゆく一ゲリラ兵である少女の暢気でハイテンションで残酷でポジティブな物語―――。 というのが彼女らに共通のテーマとしてある、と私は思う。 そしてその長い旅路の大団円に待っていたのが、Nokkoの『Colors』であろう。 ―――岡崎は、もしかしたら「へルタースケルター」が終着地だったのかもしれない。が、彼女は事故によってペンを握ることが出来なくなってしまったのだから、そこはよくわからない。 |
2003.12.17