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斉藤由貴「Noisy」

(角川書店/1994)


「夢の中へ」の大ヒットを最後にアイドル仕事から勇退したあたりからだろうか。
斉藤由貴にはものすごい妖気が漂っていた。
確かにアイドル時代から自らのフェイバリットがヴィスコンティー、三島由紀夫、萩尾望都といってはばからず、また自作詞の唄や演技にただならぬモノの片鱗はあったが、パブリック・イメージはあくまで「卒業」の斉藤由貴、「はね駒」の斉藤由貴であったし、 その範囲内の仕事であった。
それがいつしか、少しずつ逸脱していく。

ドラマ作品や舞台、セルフプロデュースのアルバム、著作本。
うわぁ、なんだか斉藤由貴が大変なことになっているなあ。
と、思っていた矢先に起こったのが尾崎豊、川崎麻世らとのスキャンダルであった。
この時期の彼女は微かな腐臭のまじった甘い匂いを漂わす腐りかけの果実のように耽美で危うい佇まいだった。
素で鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」の大楠道代のよう。ほとんど化け物の領域といっても過言でなかった。
たとえばあの尾崎豊との不倫騒動の時、スキャンダル・レポーターの差し出すマイクにとろんとした目にぼんやりとした心ここにあらずといった風情で答えていたかと思うと突然くわっと目を見開いたりと、こ、こわーーー。
完全に別世界の住人になったいた。
ま、私はそんな斎藤由貴が良かったという一人なんだけどね。
で、「Noisy」はその真っ只中に書かれた彼女の初のそして今のところ唯一の長編小説。

ストーリーはいたって簡単。
失恋によって自殺未遂まで到ったある女性が新たな男性を見つけ精神的な安定を得るまでの物語。
と一言でまとめてしまえば陳腐なのだが、その間にも興味もない男に身体を差し出し、あげくその男は彼女との関係が遠因で死んでしまったり、といろいろあるのだが、何よりも文章のテンションがものすごい。
怒りと復讐心と冷徹と侮蔑と諦念と死への願望とがぐっちゃぐっちゃの塊になってこちらに襲いかかってくるという感じ。
この世の中に存在する私を愚弄するあらゆるモノに復讐してやるという想いと、もう心も身体も疲れきって動けない、どうでもいい、ここで倒れ臥してしまいたいという想いが小説の主人公、美月の中にたえず錯綜する。
その勢いにプロットだとかテクニックだとかそんなものは軽く、ぶっ飛ぶ。
ただひたすらの感情の嵐。
この嵐のような感情だけは真実であり、ほとんどそれだけのための小説といっても過言でない。
実際、プロットが稚拙であるのは否めないのだが、それにもましてこのテンションは魅力的ではある。
これはプロの作家には決して出せないノリだな。
決してうまくはないが、惹きこまれる文章。ぜひとも呼んでもらいたいと私は薦める。

また美月は男と寝た後、壮絶な悪意を持って相手を傷つける場面が2回ほどあるのだが、ここの感情のぶつかりあいが凄い。そこには悲壮感すら漂う。
特に水田部長との対決のシーンである「再会」は凄い。
フランス文学のようにお互いの心の機微がその瞬間瞬間ごとに見事に書かれていて、作家としての斉藤由貴の白眉。
的確な場所がみつからないが、ちょっと引用。
美月は気まぐれに上司である旅行雑誌のさえない編集長の水田と一夜をともにする。が、美月はそんなことなどなかったかのように以後は水田を無視した。しかし、水田はそれでも美月への思いを募らせていた。でもって、ついに水田部長が切れて、帰宅途中の美月を待ち伏せして次の場面。

「おまえは俺に対する気持ちなんかあったのか?」
「部長--」
「一体なんで俺を誘い、一体なんで俺に抱かれて、なんで、俺の、俺の夢の話なんか、‥‥若いころの話なんか聞いたりしたんだ?」

水田の目には切羽詰って張り詰めた者だけが持つ、何者にも負けないという無意識のうちの意志がみなぎっていた。
それは、ついさっきまで美月自身が持っていたものだったのだ。
なのに、今の自分ときたらどうだ。自分が仕掛けた罠にはまって苦しみへと落ちた人間によって、皮肉にも脅かされ、おどおどと後ずさりしている。
無感動から解き放たれ、人間らしい感情を取り戻すと同時に、----それはつまり、追いつめられ不幸の中に失われた自分を再び手にし始めたということなのに、それと引きかえに何も恐れるもののなかったゆるぎない自分を失い始めるなんて。

美月は正直、水田が怖かった。
プライドをなくし、理性を捨てた人間のみの持つ苦しみの中の研ぎ澄まされた開き直りが、水田を違う人間にしてしまった。
水田の精神は今、ただひたすら一点に向けられている。
決して長くは続かない、苦しみの最中に立つものだけが許される本人すら気づくことがない集中した精神の、ある沸点。
それを今まさに水田は手にし、美月は失ったのだ。

と、この後も水田と美月の対決は続くのだが、最後は無理やり抱きしめ瞳を舐めようとする水田をなんとか振り切る。でもって美月は後ろで聞こえた車の急ブレーキと何か大きいものがあたる音にも気づかずに自宅のマンションに駆け込む。
水のシャワーを服を着たまま浴びながら、次の場面。
うるさい。
美月は精一杯の悪意をもって毒づいた。何者かわからないけれどとにかく私が憎むべき、何か。ああ、うるさい、この、耳をふさいでもなお頭の真ん中にいやらしく響くノイズ。
静かなだけに余計腹たつノイズ、誰かこれを止めて。
生きているのが途方もなく億劫で、これ以上とてもじゃないが耐えられない、と思えた。
自分そのものがガラガラと音をたてて壊れてゆく、そんな感じ。
それを引き起こすのがこのノイズだ、本当にひそかに、静かに自分をそそのかすノイズ、健康な時は気づかないが、何かひとつきっかけがあればいい、何かひとつ破れ目があれば、そこからじわじわと侵食していく。
本質的な生の無意味さを気づかせるノイズのタネを一度植え付けたらもう終わりだ、どうしようもない。
自分の身に起きた様々なことがら、恋をし、傷つき、自分を殺し、好きでもない男に身をまかせ、なおさらに自分を壊し、時を経て傷をいやし、人間らしさを取り戻し、ひきかえに弱くなり、代償として自分のしたことの報いをうける。

結果、その思いに囚われたらもう終わりだ。
無力感、この世から消え去ってしまいたいという思いに取りつかれたら、もう生の絶望という名のタネが芽を出し始めている証拠だ。
美月の頭の中で、美しく咲き乱れる死の花園のイメージが広がった。
ゆらゆらと花弁が飛び散って、舞っている。
その向こう、行き着く先は------?

ここで、今までの感情の揺らぎが頂点を極める。
ああ、彼女もう、死ぬしかないな、と私は初読でここまできて思いましたよ。
やっぱり次の章では水田部長の交通事故死が告げられ、完全に美月の世界はホワイト・アウトしてしまう。

だが、とっつぜん、本当、突然に水田の葬儀後に公園のブランコで谷山浩子の「夜のブランコ」を口づさみながら真っ白になっている美月のもとに小井圭(イサライケイ)なる男が現れるんだからびっくりさ。
でもって、なんかよーわからんが、美月はこの男が現れるとこによって精神が安定してしまうのよ。
なんだか、唐突に。
(この辺の描写がなんだかちょっと宗教っぽい)
で、美月はいろいろあるけど、生きていこう、ってノリになるのよ。
急転直下よ、もう。なんじゃ、こりゃーーーっ、って感じ。
でもって、美月の情緒不安の全ての原因であった元彼、ヨウジと最後に対決し、物語はエンド。

でも、この終わり方、そんなに嫌いじゃない。
なにも、根本的な解決なんてしてはいないけどさぁ。
ま、現実なんて、こんなもんなのかなぁーーーーと思ったりする。
絶望のきっかけもこんなもんかもしれないし、救済もこんなもんかもしらん、と。
人間なんて理想と現実の中間領域でしか生きていけないんだし、こういうケリのつけ方で自分と周囲を許してもいいのかなぁ、と。
で、そんなありきたりのところにこれだけのテンションが書けるのが素人の強みなんだろうなあーーー、と思ったり。

はっきり言ってこの小説は私小説だと思う。
斉藤本人はあとがきで「私には、美月のような経験はない」とシラを切っているけれど、ね。
元彼のヨウジは軽薄でかっこつけの癖してどこか繊細でナイーブ、でも結局はエゴイスティクで自分しか好きになれない最低の奴なんだけれど、これがどうしても尾崎豊に見えてしまうし、 結局美月を救済した小井にしたって斉藤由貴の今の旦那の名前(小井延安)と同じ名だしなぁーーー。
数々のスキャンダルの末、教会に迷惑がかかるとモルモン教を脱会しようとした斉藤由貴を説得したのが今の旦那でしょーー。
実存的危機のその瞬間に出逢ったわけじゃない、この小説でも現実でも。
といって、なにもワイドショー的にこの小説を追及する気はさらさらないんだけどね。

で、この小説を上梓し、アルバム「moi」を発表して、彼女は結婚するわけです。
ちなみにこのアルバム「moi」は「noisy」とパラレルなところにある作品。
半分バート・バカラックなどの洋楽カバー、半分作詞斉藤由貴、作曲筒美京平の新曲で自作詞曲はまさしくこの時期の斉藤由貴の魂の歴史そのまんま。
失った恋への悔恨、諦念、そして新たな出会いに揺れる心。そのクライマックスの「あなたと出逢って」は名曲。

あなたと出逢ってココロのコオリが ゆっくり溶けてゆくのがわかる
あなたと出逢って真実(ほんと)の花が ようやく咲いてくるのがわかる

……

今まで私が一人でこらえた 悲しみ聞いてくれたらいいな
あやまち 傷み ひとつの無駄も ないよと笑ってくれたらいいな
誰かを愛した記憶の重み 一人でそっと忘れます

出来ることなら 小さな私の 命をどうぞ 受け止めて
で、このふたつの作品で斉藤由貴は大団円してしまう。
あんなに背中に背負っていた怨霊がポロッと取れてしまう。
「私の人生はもう老後なんですよ」
なんてインタビューで答えていた斉藤由貴が、ふつうの演技派の女優に戻ってしまった。

その後も「あ、春」などいい仕事もしているが、安定しまくりの演技でこの頃の過剰な佇まいはすっかり抜け落ちてしまった。
また小説は書いていないもののエッセイなどの軽い文章は書いているが、これも、もう落ち着きまくり。
普通にちょっといろいろと考え事のある大人の文章。
愛の力、というか宗教の力、恐るべし。

しかし、それにしても由貴「今の私はこの『noisy』という小説の、書き始めたあの頃を思い出すことができない」ってのはちょっととぼけ過ぎ。
家庭を持つことから発動した無意識の防衛本能なのかなんなのか知らんが、どうよ。

ともあれ、第二子妊娠してすっかり奥様モードな斉藤さんに、ふと、やたらエキセントリックなあの頃が懐かしいと思う今日この頃です。
時々、あの時のまま今の旦那にも出会わずに怨霊を背負いまくっていたら、この小説はどうケリをつけたのか、また、今斉藤由貴という女優はどんな女優になっていたか、なんてことも考えてみたりもしますが……、ま、それは、意味のないことだわい。

2003.05.21


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