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久世光彦 「謎の母」

小説という名のラブレター

(1998.02/朝日新聞社)


こりゃ、同人誌だ。
頃は戦後直後。無頼派の旗手といわれた小説家、朽木の死までを、十五歳の少女、さくらの視点で語る小説。
朽木は第1回芥川賞を石川達三に奪われているし、最後、玉川上水で自殺を図り命を落とす。
となれば、もうこれは太宰治である。

となると、太宰に魅かれる十五の少女、さくらは久世光彦である。
「太宰治の世界」という一種、かっちりと構築されたファンタジーの世界に、ぽつんと和紙に水滴を落とすように自分を落とす。
それは作家への幻のラブレターであり、また、小説の世界に別次元にいるはずの自分がひょっこり顔を出し、歩き回る、メタフィクションでもある。
と、なると、これは優秀なアニパロの一作品ということになる。

では何故、久世光彦が少女なのか。
それは読めばおのずと見えてくる。

朽木(=太宰)という人間造形。
女に甘え、ずるく卑怯で万事においてだらしがなく、しかも不潔、およそ人としてまともに取り合うことなどできそうにもない男なのだが、その心根に妙に清廉としたものがあり、それがほんの時折だけ、仄見える。
が、それは本当に一瞬のことで、気づくとやっぱりフケだらけの頭をこちらに向けて、涎を垂らしながら眠っていたりするのである。
こんなダメな奴はいない。
と、呆れかえる一方で、無性に、本当に訳もなく、「この人と一緒にずるずるダメになってもいいかも」という気にさせるのだ。
それはどこまでも果てることない泥濘かもしれない。なんども叩きつけられ、恥を重ね、それでも果てない地獄への闇路かもしれない。
でも、まあ、いいや。一緒に地獄に落ちてあげる。
近くにいる者は、彼に対してそういういささか厄介な気持ちを持たざるをえないのだ。

彼の傍にいると自分の中の母性が否応なく反応してしまうのだ。―――母性/父性はジェンダーによってただ分けられてるだけで、実際は誰しもがその両方を持っていると思っている。母性というのは「相手のところまで降りてどこまでも赦す愛」、父性は「相手を引き上げる愛」だと思う。愛に社会性があるかないかの違いといってもいい。例えていうなら、躾の厳しい教育ママは母性より父性が勝っている。

閑話休題。
となると、久世光彦が少女であるほうがこの作品が生きるのは当然だろう。
もちろん太宰の「女学生」をどこかで下敷きにしているというのもあろうが。


それにしても朽木の造形は見事。
いきつけのバーでさくらといるところを羽織ゴロに写真を撮られる。なにお、とたち上がったはいいものの、一発でのされる朽木。となると翻って、頭を床になすりつけ、「のせないでくれ」と嘘八百を並べ立て懇願する。この様は見事。
いかにも太宰さんならやりそうです。

また、甲府での公演会のシーンは「こりゃ『ドリフ大爆笑』だろ」、といいたくなるほどのめちゃくちゃ、ドタバタさで、最高。
ファンに「いつ、死ぬんですか」といわれた朽木。
「もうちょっと待ってください」「いつまで、ですか」「ですから、もうちょっと」と、この押し問答はかなりパンクだ。
これでは、なかなかこないラーメンの出前の催促とか、〆きり間際の作家と編集の押し問答と同じじゃないかよっっ。
テレビドラマの演出家である久世光彦の部分が表に出たシーンでもありますね、これは。

私にとって作家・久世光彦は「昭和幻燈館」の「怖い絵」の「聖なる春」の「蝶とヒットラー」の久世光彦であって、つまりそれは「遅れてきた最後の大物耽美作家」ってイメージなのだが、このあたりの作品から正業であるドラマ演出での作品―――「時間ですよ」やら「寺内貫太郎一家」やら「向田邦子ドラマ」やら、とテイストを被らせてきているように見える。

となると、してみたくなるとが架空のキャスト。
朽木は痩せていたら沢田研二なんだけど……、笑いがドリフだから、案外志村けんあたりにやらせたら面白いかもなあ。
さくらの母、上海お玉は演技派がいいなあ。大竹しのぶか桃井かおり、樹木希林 、小泉今日子なんか意外でいいかも。
朽木と心中した哀しい娼婦、サチ子は泣き顔が綺麗な日本美人、増田恵子、田中裕子、清水美沙、南野陽子、このへん。
サチ子に思いを寄せる不良がかったさくらの弟、鮎郎は、やっぱジャニーズ系でしょう。いまだったら、山下智久あたりかなぁ。
が問題なのが、主人公さくら。10代の瑞々しさと、それでいて、泰西名画の聖母子像のような慈愛があって、かつ演技ができてって。そんな若い女優、今いるかよっっ。
理想としては10代の薬師丸ひろ子か斉藤由貴あたりがベストだけれども。


追伸。十五の少女、さくらの一人称で小説をすすめるのは、やっぱりちょっとこそばゆかったです、先生。
ところどころのポエムじみたモノローグも雰囲気を出すためとはわかっていますが……。
恥ずかしくなって、ふいに小説世界から我にかえることが何度かありました。
クリムトの偽画を描く老人にも右翼の青年将校にも江戸川乱歩にも憑依した久世先生ですが、十五の少女となるとちょいと無理があったようです。

2003.10.26

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