中森明菜 「難破船」
1.難破船 2.恋路
破局の訪れに、セイレーンとなる明菜 (1987.09.30/ワーナーパイオニア/L-1755) |
「難破船」の初出は84年の加藤登紀子のアルバム『最後のダンスパーティー』である。 同アルバムのリード楽曲としてプロモーションも行ない、コンサートでも加藤登紀子はさかんに歌っていたそうだが、 いつしか歌いつづけているうちに、なぜか中森明菜の姿がちらつくようになったのだそうだ。 加藤登紀子自身は楽曲の提供の顛末をかように後述している。 彼女の失恋が噂されていた時期で、たまたま、同じスタジオで隣に佇んでいたんですね。 それで『よかったら歌ってみませんか』とカセットを送ったんです。 そしたら、次のコンサートに、ぽんとお花が届いて、それがイエスの返事でした。加藤は歌いだしの「たかが恋なんて」というところが「いかにも、明菜ちゃんっぽい」と思ったのだそうだ。 この「たかが恋なんて」という部分、これは逆説である。 それは「飾りじゃないの涙は」の冒頭、「わたしは泣いたことがない」の逆説的手法とよく似ている。 「飾りじゃないのよ涙は」には、泣いたことがない、といいつつも、どうしようもなく泣きたがっている彼女の姿がいたわけだが、 この「難破船」には、「たかが恋なんて」と強がりつつも、本当は、恋を失ったら、何もかも失ってしまう。 それほど、恋が全てで、恋にこそ生きる意味がある、そう思いこんでいる。張りつめたところまで自分を追い込んでいる彼女の姿がある。 この曲に中森明菜の姿を見たというのは、まさしく卓見としかいいようがない。加藤登紀子は、中森明菜という存在そのものをよく知るものの一人といえるかもしれない。 ■セイレーンの歌声 「難破船」はアマリア・ロドリゲスのファド「Nausragio」を手本にして作られたのではなかろうか。 加藤登紀子はこの曲を「難船」と題して、日本語詞で歌唱。77年のアルバム「さびた車輪」にそれは収録されている。 加藤登紀子の日本語詞の「難船」は以下である。 わたしは小さな船に夢を乗せた涙を流しながら、夢を自ら沈める女。もっと深く沈めよ、わたしの小舟。 呪詛のような呟きとともに、落ちてゆく彼女の夢。 「難船」は心象風景を私小説的に歌った歌であるが、「難破船」はそれを更にドラマチックなものへと装いを変えている。 この歌、ひら歌の部分は、現代的な、現実的な風景を描いている。 あなたに逢うこともない街角を、しらんぷりの無口な人の群れのなかを、ひとりで歩いたり、 強がって、別れを告げた翌朝の、寂しさだったり、という、そういった風景を私小説的に描いている。 それが、サビで一転、神話的、幻想的なイマジネイティブな風景に飛躍する。 「折れた翼広げたまま〜」以降の、この部分だ。 これは、彼女の心象風景でありながら、しかし、どこか異界じみた雰囲気すら漂っている。 これがこの歌の肝だ。 ――都会的、現代的な風景が、しかしその風景をポスターをはがすようにべりっとはがすと、その向こうに、妖しげで美しい幻想的な風景が広がっている。 これは、例えば「ジプシークイーン」や「椿姫ジュリアーナ」、「LA BOHEME」などに顕著に表れているものであるし、 また、それに極めて類似したもので、「Desire」「TATTOO」など、現代的な風景を点描しながら、どこか懐かしさと近未来的なものが混交した不思議なイメージが立ち上がってくる、というも、ある。 この喚起力は、当時の彼女の作品に表れる独特のものである、と、わたしは思う。 折れた翼 広げたまま壮麗なオーケストレーションとともに、はるか高みの水面から、翼をもがれた天使のように、ゆるく弧を描いて、水底に失墜していく彼女。 というイメージが、ここで広がる。 スカートの襞が悲しく、ゆれながら、彼女は舞うように、ただひたすら、孤独の淵へと帰るために、落ちていく……。 更に二番になると、この主客が反対になる。落ちていくのは恋人で、わたしは、それをいざなう立場、となる。 おろかだよと 笑われてもここでの明菜は、まさしく、船夫を水底にひきずるセイレーンとなる。 彼女は、遠い水底で千年の孤独を喰んでいる。 彼女は、水蜘蛛のように、両の腕を広げて、待ち受けている。 彼女の長い髪はまるで、それ自体が生き物のように水の流れにまかせてゆらゆらと泳いでいるだろう……。 当時、歌番組に徹底してカスタマイズドしたビジュアル路線をひた走っていた中森明菜であったが、 この「難破船」を歌うときにかならず彼女が身にまとった、襟ぐりの大きく開いた、古式ゆかしい豪華な夜会服は、 まさしく、この世界を表現するにあっていた。 ここで表現されているのは、水の世界という、ひとつの異界への逸脱であり、一種の心中願望といっていいものだろう。 また、この部分は、「わたしは貝になりたい」と自らを閉じる、明菜の自我構造を実に象徴している。 それが、かように物語世界的にロマンチックに表出するのが、当時の明菜のよさであった。 ■ 賞レース 中森明菜は87年の音楽賞レースに、この「難破船」で挑んだ。 84年以来、明菜陣営は年頭のシングルを賞レース向けに制作している様子があったが、この年は九月リリースという、賞レースで勝負するにはセールス面では未知数のこの楽曲で勝負している。 それだけこの曲に賭けるものが明菜陣営にあっただろうか。 実際この曲を歌う明菜の姿は「Desire」や「飾りじゃないのよ涙は」「ミ・アモーレ」に出会った時のような、 やっとめぐりあえた楽曲、という、そんな決定的な佇まいがあった。 手を震わせながら、涙をこぼしながら絶唱する彼女の姿は、今までになく深い陰影が漂い、 それは日本を代表するトップアイドルシンガーという言葉では捉えきれないほど掴みの深いものがあった。 この曲は、一流の表現者として、歌手として、彼女が成熟したことを多くの視聴者にしらしめることになったといえよう。 明菜はこの時点で二年連続レコード大賞の栄冠に輝き、三度目の受賞の期待も高かったが、大賞は近藤真彦「愚か者」に譲り、 彼女は「難破船」でレコード大賞の「特別大衆賞」を受賞する。 「大衆賞」は、70年代に大賞に次ぐ大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞であるが、77年のピンクレディーを最後に廃止。 「特別大衆賞」という名義では、80年に既に引退した山口百恵がそれまでの実績を称え、与えられたのみである。 この賞を、この年、現役の明菜が受賞した。 明菜はレコード大賞では、新人賞こそ逃したものの、その後は、大賞の2冠をはじめ、「ベストアーティスト賞」「最優秀スター賞」「ゴールデン・アイドル賞」など、 準大賞クラスの大きな賞をわずか数年の間に次々と受賞。まさにこの年など、もう明菜に与えていない賞が見つからない、という感じで、むりやり制定して与えたというか、 そんな印象すらある。まさしくこの頃の中森明菜は女王であった。 しかし、この年を最後に中森明菜はレコード大賞の舞台から消える。翌88年は「TATTOO」で大賞候補の金賞を受賞するが、出場は辞退、以降は、賞レースの大舞台に立つことはなくなった。 また、賞レースも、以降、形骸化が著しく進行(――その転機の象徴がまさしくこの87年の「愚か者」の大賞受賞だ、ともいわれている)し、かつての大舞台の輝かしさは失っていくことになる。 中森明菜が、歌謡曲最後の時代の最後の歌姫、という印象が強いのは、こうしたところにも起因するのかな、と、わたしは、ふと思いを馳せてみたりする。 |