×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

メイン・インデックス少女漫画の館>長野まゆみ フェア


長野まゆみ フェア


「いつもポケットにやおい」こんばんわ、まこりんです。
「雪花草子」以来、12月は私のなかで軽く「長野まゆみ」フェアが行なわれていた。
出来ればそれぞれのテキストをしっかりとしたモノにまとめあげたり、あるいは全ての著作を読んで、全体のレビューとするのがベストなのだろうが、そこまでの熱意と時間がないので 一読して感想の走り書きをそのままの形でまとめてあげることにする。


 水迷宮  (河出書房新社/全2巻/1997.6〜7)

これはやおいというよりもレディコミかな。
水府の帝の娘、千潮姫の数百年にも及ぶ粘着スト―キング物語。

その昔。千潮姫は己の美貌と引き換えに旅の若者を助ける。しかし姫の誠意はその若者には通じなかった。オコゼのような醜い顔となったその姫をその若者は嘲笑い、退けた。 姫は水神の力をもって、その男と彼の子孫に復讐するようになる。というお話。 ある意味中島みゆきのような、愛されない女の怨念に支配された世界。

それぞれが時代の違った短編連作だけれども話は地下水脈となってつながってるよ、というスタイルで、各話でそのたびに千潮姫があらわれ、旅の若者の子孫達を試し、陥れる。 それぞれの話は愛憎因縁入り乱れで妖しくドロドロとエロティック。近親相姦バリバリでレディコミや昼メロバリなのだが、設定と筆力で乗りきっている。気品は決して落ちていない。 中世説話を読むように楽しめる。面白い。個人的には那智と夜叉丸がカワイソでよかった。

とはいえ、大オチはなし。千潮姫の粘着的行動はついに物語のなかでは昇華されませぬ。 それがちと悲しい。というか、そこはきちんと書いておいたほうがいいと思うぞお父さんは。

ちなみに自作の表紙絵は天野嘉孝を意識したのか、とても妖しくて綺麗。



 行ってみたいな童話(よそ)の国  (河出書房新社/1994.2)

うわぁぁぁ……。これはひどい。
世が世なら作者は当局にマークされるよこれは。少なくともわたしに息子が出来たなら長野まゆみの近くには絶対近づけない。
少年愛者の変態妄想童話集。ひたすら少年達が陵辱され陵辱され、ただそれだけというお話。「夏至南風」よりも一層ひどい。

確かに「童話」らしい残酷性はよく出ている。一定の完成度は保っているといえる。が、それが全て少年への陵辱という方向に向かっているのはいかがなものか。
なんとなく彼女ってうちらやおらーとは立ち位置が違うなぁ、とおもっていたが、この作品でわかった。この人は自らが少年でありたい人でなく、むしろ少年をいたぶりたい人なんだ、と。つまりいわゆる少年愛の人なんだね。稲垣足穂とかとおんなじハコの人だ(……とひどいいがかりをつける)。
彼女の描く少年というのはいうならば主体ではなく、客体(オブジェ)なのね。だからオタ男性の描く残酷なエロ同人のようにどれだけ手酷く虐待しまくっても救いがなかろうとも全然アリと。
モノを扱うように人を扱って肯定され、相対化されないタイプの作品はどんな傾向の作品でも私は嫌いです。カワイソと素直に思う。

作者はそれを偽善と、似非ヒューマニズムというかもしれないけれども(――後書きの書きぶりにそんな気配がある)、似非を嫌うなら本当のヒューマニズムを作品で描くべき。 こんな残酷なエロ小説の後書きでそんなこといわれてもただのいいわけにしか聞こえない。こんな性欲充足な話の後書きで何を偉そうに、と思ってしまう。 作品のクオリティー以前に作者の目指している方向に疑問を感じる。
男性向けショタエロ漫画を楽しめる人にはヌける作品でいいんでないの、と私は冷ややかに距離をとろう。



 紺極まる  (大和書房/2003.12)

普通に薄味のどこにでもありそなやおい小説。どこへ行くんだ長野まゆみ。

26歳の予備校講師、川野は妻との離婚を機に引越しをする。しかし新たな住まいには既に先客がいた。真野という18歳の浪人生、彼の勤める予備校の生徒だという。川野は共同生活で少しずつ少年の秘密を知るようになり……。って、この先はヤオラーのあなた想像した通りの話ですわ。
タクミくんシリーズとかのアレ系の思春期学園リリカルJUNE。悪い意味でボーイズラブ以外の何者でもない。ルビー文庫などのボーイズレーベルの作品のような、というかそうとしか見えないレベル。ホモで美少年で繊細でよかったね、という甘いだけの何もないお話。こういった話の楽しみ方を誰かわたしに教えてください。

それにしてもやおい作家ってのはどうして物語の重要でない位置に意味もなくイヤな性格の女を無駄に配置したりするかな。この小説でいったら山口さんがそれだけれども、 こういったところから、やおい作家は女性という性に同一化していないんだなあ、ということをわたしは感じるわけで。とはいえ、無意識かつ露悪的なその行為が、むしろ逆説的に彼女たちが女性側のジェンダーにいるということを浮き彫りにもしているようにもまた見えるわけで、ま、いろいろむつかしいよね。
ともあれ、微妙に萎えたわたしの長野まゆみ祭りはこれにてひとまず終了。


2004.12.23
勝手に毒書感想文のインデックスに戻る