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紅水月「盲雨鬼嘯」

救済の道行


 男の業とはそれはすなわち暴力である。女の業とはそれはすなわちセックスである。「殺」の業と「淫」の業。この2つは背中あわせのように重なりあい、決して和合することはない。
 これが正面切ってぶつかり合う時、果たしてどうなるのか。それは中国4大奇書といわれる双子の作品『水滸伝』と『金瓶梅』が教えてくれる。つまり「武松の金蓮殺し」――一方によるもう一方の虐殺、そのように帰結するのである。

 場所は、中国、江南。時は宋代。十一歳ではじめて人を殺して以来、殺人を生業として生きてきた男、区寄(おうき)。寺院で稚児として囲われて育ち、以来、春をひさぐことを自らのたつきとしたきた少年、盲雨(もうう)。2人は偶然に出会い、共に旅をすることになる。
 この二人はお互いが救いがたい業を背負っている。
 区寄は十一の時、人買いに攫われそうになった実弟を助けるために賊を殺してしまう。弟はそのショックから言葉を失う。いたたまれなくなった区寄は棲みなれた黄河のほとりにある故郷の村を離れる。――と、それから数年後、故郷の村が黄河の大氾濫により水没、両親を失い、実弟の行方を失う。
 以後、彼は言葉もなく涙を流す実弟の夢に悩まされるようになる。そして彼は、壊れたレコードが同じ旋律を繰り返すように、殺しの世界に没入していくようになる。彼は殺の業を背負っている。

 盲雨は自らの過去を知らない。親の顔も兄弟の顔も彼は知らない。気がついた頃には既に寺院に拾われていた。
 幼い彼は、自らの居場所を得るために、僧侶に体を開くことを覚える。しかしそれを嘆いたものがいた。盲雨の一番記憶の奥底にある者、熱で魘されていた彼を介抱し、彼に言葉を覚えさせ、なによりも彼の近くにいた僧侶、寂慧である。
 寂慧の諌めに彼はこう答えた。「好きでこうしている。抱かれていると安心するのだ」。すると寂慧は彼を救うためになにをしたのか。彼を抱こうとした。破戒の道に墜落し、諸共となった救おうとしたのだ。彼の愛にうろたえた盲雨は、寂慧の師父を誘惑し、その情事を寂慧にみせつけた。
 ――そんなある日、旅の楽士が寺に訪れる。彼の吹いた奇妙な嘯(口笛)、それを聞いているうちに盲雨は遠い昔に自分が吹いていた嘯を思い出した。それはようやく見つけた失われた過去の手掛かりだった。急いで寂慧のもとに駆けつけ、その嘯を吹く。と寂慧の顔がみるみる変わった。「魔羅、お前は魔羅だ」。その言葉だけを残し、寂慧は寺を出奔してしまう。
 その嘯には聞く者に幻覚をおよぼさせ、その人の心の底に眠る望みを現出させる不思議な能力があったのだった。自らの過去の手掛かりを得ると共に、彼は最愛の者を失ってしまった。彼の長い彷徨がここから始まる。
 寺院での日々が傷となっている彼は、親しみを覚えた者どもと体を交わさずにいられない。なのに何故か寝た後に必ず相手を無性に憎く感じてしまう。自分でも理解不可能なうらはらな感情、彼はまともに人と触れ合うことができない。彼には「淫」の業を背負っている。
 その「業」によって2人は共に、盲雨の言葉を借りれば容易く「心が裏返ってしまう」。幸せでありたい。凪いだ海を進む船のように、平穏無事にありたい。そう思っているはずなのに、自分の心が裏返って、悪魔のような衝動が心を支配する一瞬があるのだ。それは区寄には破壊・殺人衝動として、盲雨には淫欲として発現する。

 物語の舞台が宋代であること。主人公が象徴的な相対する業を背負っていること。そこから、これは「水滸伝」と「金瓶梅」に振り分けられた男女の本質的な相克が下敷きにあるのでは、と私はまず類推した(――盲雨は少年として描かれているが、彼のジェンダーとしての立ち位置は女性そのものである)。
 しかし、その実、物語はもっと繊細でむしろ現代的であった。原初的な感情が擬人化し肥大化し、ぶつかり合うという、いわゆる説話・神話的な物語力は薄く、むしろ内面に深く落ちていき原罪意識を静かに腑分けするような、きわめて近代小説的な作風といってもいいものであった。いいかえるならば「武松と金蓮」を近代的自我によって昇華した物語といってもいいものだった。

 私が1番好きな場面は、第7話のここ。
 湖に浮かぶ一艘の小船。その船に乗る二人。殺人衝動に苛まれ、自らの心の牙に怯える区寄を盲雨はやさしくなだめる。

 「心って裏返るじゃない……。優しい気持ちでいたのが、突然狂暴になるってよくあるよ。でもそれは荒れた海にうかぶ小舟がひっくり返っちゃうような、そんなものじゃないかな。
 世の中に、裏と表のないものなんてないよ。でも表は建前で裏が本音ってわけではないと思う。
 ねぇ、区寄。この船だって表だけで裏がなかったら水に浮かばない。両方なければ沈んじゃうんだ。でも裏側は陽にあたらず水につかっているから表より汚いんだ。だから誰もそれを人目にさらしたくはないんだよ。
 でもね、区寄。そうやって綺麗な表面だけ水の上に出していられるのは海が荒れていない。ただそれだけなんじゃないかな。それはただ運がいいってだけなんじゃないかな」
 ――盲雨は区寄をやさしく抱きしめる。
「好きだよ、区寄」

 二人の旅に決められたゴール地点はない。あえて言うならば二人の罪が赦され、救済されたその時が旅の終わりの時、である。
 過去の自らの過ちを赦し、自らが背負ってしまった重い十字架を払い、新しい自分になるための、清算と通過儀礼の道行。それぞれが自らの深い罪の領域に入りこんでいく。そして、入りこめば入りこむほど、お互いがお互いを支える大切なかけがえのないものとへ変じていく。傷が傷を呼び合い、哀しみが哀しみを求めるように、2人はひっそりと静かに、しかし誰よりも強く、お互いを求めあい、寄り添うようになる。2人は失ったものを埋め合わせるかのように、お互いが時に、親となりかわり、兄となりかわり、友となりかわり、そして、恋人となりかわり、お互いを慰撫し、そして1歩ずつそれまでの自分を乗り越えて行く。
 ―――この時点において、盲雨が男性であることにはじめて意味が生まれる、と思う。2人は、親子であり、兄弟であり、友人であり、情人であり、そしてかつ実はそのどれでもない。全てを補うオールマイティーかもしれないし、あるいはどれにも満たない者なのかもしれない。お互いがお互いジョーカーのような不安定な関係なのである。しかし、だからこそ、2人は強く結ばれ、深いところで理解しあえるのかもしれない。
 罪によって強く結ばれた二人。だから慈しみあう二人の姿は、美しいくも、悲しい。


 この作品は同人誌として94年から発行を開始、98年までに計6冊発行された。しかし執筆途中の99年に作者の紅水月さんは亡くなってしまい、物語まるごと天国に持って行かれてしまった。
 この後どのように紅水月さんは物語を進めようとしていたのか、私はわからない。二人は幸せになれたのだろうか。今でも時々ふと思いを馳せる。

 ちなみに紅水月さんの「盲雨鬼嘯」は小説家・松浦巽さんのサイトの通販で今でも扱っている。アドレスはココ→http://n-m.daynight.jp/
 メールでの問い合わせの後、通販可能とのこと。(2010年11月現在、5巻以外は通販可能、残部僅少)
 もし、拙文を読み興味を持った方がいるのなら、アクセスしてみていただければと思う。

 また紅水月さんは角川の「歴史ロマンDX」をはじめ、「紫苑」「ミリテリーボニータ」などでも作品発表されていたという(わたしは「歴史ロマンDX」での活動しか知らない)。しかし、単行本という形で作品を残すより先に彼女はこの世を去ってしまった。彼女の商業誌での活動で今、手にはいるものは残念ながら一つもない。どこか志のある出版社が彼女の作品の単行本を出版するということはないだろうか。
 ひとまずまんだらけ出版部での出版が決まったと同人誌での情報も載った「鏡花春宮画冊」はなんとかならんものか、と私は今でも思っている。(あとカドカワでやっていたカワウソ漫画『一寸戯話シリーズ』も、是非。)

2004.06.12
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