森田童子。本当に不思議な歌手だと思う。 「友人の自殺をきっかけに歌いはじめた」という彼女の伝説、これが本当なのかどうか、それは、定かではない。 ただ、彼女の歌には、そう思わせる説得力があった。 彼女の歌は、すべて葬送曲といっていい。 失われたものを、人を、時代を、彼女はただひたすらに思い、「おやすみ」と歌う、彼女はそういう歌手だ。 しかし、どんなに悲しくとも、弔いは終わり、残されたものは日常に戻るように、わたしたちは彼女の歌を、いつかとめなければならない。 私たちは、どんなに悲しみに暮れようとも、彼らと道連れになるわけには、いかないのだから。 彼女は、いつか歌を歌いやめなくてはならない。そういう歌手でもあったのだ、と、思う。 それは彼女が一番よく知っていたことだろう。 私たちのコンサートが不可能になっていく様を見て欲しいと思います。83年。彼女の喪は終わり、彼女は歌うことをやめる。 引退からちょうど10年後の93年、ドラマ「高校教師」の主題歌に起用された「僕たちの失敗」が約90万枚の大ヒットを記録、 それに伴って発売されたベスト「僕たちの失敗 〜ベストコレクション〜」もチャート一位を獲得したが (売上は27万枚) 、彼女はとうぜん、表舞台に登場することはなかった。 ただ、彼女は今、主婦となり、どこかで平凡暮らしているという風の噂だけが、めぐった。 森田童子という歌手は、ひとつの伝説である。 なにかの寓話のよう、どこか遠い国の物語のようだ。 こういう生き方をする歌手もある。
まだ彼女独特の世界観は以後の作品と比べるとさほど強固ではない。 「神田川」的な、70年代四畳半フォーク的色彩の強いアルバム群のひとつといって、差し支えない作品。 「さよならぼくのともだち」「地平線」など、後の彼女のメインストリームたる、鋭い刃の切っ先のごとく悲しみが光る作品もあるが、 「センチメンタル通り」「たんごの節句」「淋しい雲」といった軽く、牧歌的な作品もまた各所に散らばっている。 つまりはさだまさしのような、か弱きセンチメントの世界というところ。 75年、まだ時代は彼女とともにあった。
森田童子の中で、なにかが壊れた。彼女は、やさしく発狂する。 十字架を失ったもの――身を捧げ、信じうるものを失った者の彷徨。失楽園の世界。それがこのアルバムだ。 森田童子の感傷は、反時代・反社会といっていいほどに深く激しく突き抜けてゆく。 ギターの甘いアルペジオに隠れているのは深い断念、である。 人を信じたい、人を愛したい、自らを受け入れたい。 しかし、彼女にはそれができない。 彼女と世界には、いつも薄い膜が一枚隔たっている。 それを突き破ることがどうしてもできない。 「母よ、僕の僕を撃て」と叫ぶ「伝書鳩」、リストカットを克明に描写した「逆光線」、もう若くないことを悟ったひとりの青年の哀愁の漂う「海を見たいと思った」など、 激しい痛みを伴うやさしい歌たち――。森田童子の歌世界は、このアルバムで完成されたといっていい。 逆をいえば、ここから引退まで、彼女の表現のベクトルはなにひとつかわっていない。 その先にあるのが袋小路であることを、誰よりもよくわかっているくせに、森田童子はその道へと、つきすすんでいく。
拭い去ることの出来ない喪失感。すべての確かさは砂になり、ただ、時だけが無常に流れていく。 その先にあるのは、心中願望だ。 どこにもいけないぼくときみ――。きみはぼくの手のひらで死ねばいい。 冒頭「蒼き夜は」〜「君と淋しい風になる」〜「ふるえているネ」と続く心中の道行のような展開は鬼気迫る。 激情の度が過ぎると心が冷たく冷える――沸点に達した水のように、ただ、水蒸気となって静かに霧散していく。 そんな、淡々としている森田童子の歌声が、だからこそ透明な悲しみと、溶鉱炉のなかのような赤々とした激しい熱を感じる。 ほか、「ぼくを見かけませんでしたか」「ぼくが君の思い出になってあげよう」とタイトルだけで、もうのっぴきならない。 「僕はいま、死にたいと思う」なんて歌詞、なんてことないという感じでつるっとナチュラルに歌えてしまうのは日本では森田童子だけだ。 寺山修司的世界といっていいサーカスの不幸な少女を歌った「セルロイドの少女」が、むしろ虚構性が前にでてほっとするというのだから一体どういう歌手なんだこの人は。
彼女は、確信犯的に、過去の世界を幻燈画のような鮮やかでなつかしい歌にしていく。 すべての状況から遮断され、森田童子は森田童子以外のなにものでもなくなる。 そして、彼女の歌そのものが神話化していく。 それは、アーティストとして幸福のことなのか、不幸なことなのか。 ただひとつ確かなのは、このアルバムでとうとう彼女の最期までのレールが引かれた、ということだ。 このアルバムをもって彼女は「歌を早晩断念せざるをえないアーティスト」となってしまった。 それにしても移籍一枚目にして末期感が漂う、というのも、どうなんかね。 「ラスト・ワルツ」なんて、もうすでにして白鳥の歌にしか聞こえない――曲がカットアウトするところなんざ、寒気がする。 「海が死んでもいいョって鳴いている」とか「たとえば ぼくが死んだら」とか「みんな夢でありました」とか、こんなタイトル、ありかよ。というところも含めても臨終の音のようなアルバム。 聞いていると、甘いあきらめような感情がふつふつと湧きあがってくる。 「人ってのは、なるようになるしか、ないんだね」と。 そう、グリーン大佐は答えの前に、僕たちの前から消えてしまうものなのだ。 彼女の歌そのものが、死に至る病、である。 彼女の選んだ道はさらに細く、どんどん幸薄くなっていく。 これ以上彼女の歌についていくのが、こわい。しかし、これもまたまぎれもなく傑作。
ワーナーに残した三枚のアルバムをひと言でいうと、これである。 憎悪も絶望すらも通り過ぎて――ただひたすら、透明に黒いのだ。 涙ひとつもこぼれやしない。 ただひたすら、どこまでもやさしくなり、すべていとおしくなる。 真実、人が死ぬ時というのは、こんな感情が身のうちに押し寄せるのではないだろうか。 「船がくるぞ」の切ないまでの幼い日々の光景。 「孤立無援の唄」の肌をぴったり寄せ合ってぐずぐずと同悲する、甘く、一面どこかだらしのない友情。 「サナトリウム」のつかの間の純愛。 それらはいまやすべて破局した世界である。 すべてが遠い、だからこそいとおしいのだ。 森田童子は過去という、美しくも悲しき玩具たちを手遊びにしながら、静かに哀悼する。 このアルバムには、母の胸に体を預けているような甘さがあり、しかし、一方で死神の鉞のようなおそろしさもまた、潜んでいる。 ふたたび最後を飾る「ラスト・ワルツ」が、意図はよくわからないが、これまたいいようのない終幕感を感じる。 それでももう1枚、彼女はアルバムを作る。
1983年といえば、YMOの散開し、マイケルジャクソンの「スリラー」が世界的大ヒットした年だ。 佐野元春がブレイクし、チェッカーズがデビューした年でもある。 日本でこの年最もレコードを売ったアーティストは中森明菜。明菜・聖子のツートップ体制が確立し、その翼下で、小泉今日子、河合奈保子、柏原芳恵、早見優などそれぞれ活躍、歌謡界はまさしくアイドル全盛だった。 その年に発売されたアルバムとして、聞く。あまりにもの時代とのギャップに驚く。 アジびらの舞う学生街は白々としたビル街に変わり、学生たちはみな美しくなってはやりものの溢れる街を風のように回遊するようになった。 闘争、革命、そんな言葉に振り向く人はもうどこにもいない。 アルバムリリース前年に取り壊された「ときわ荘」で録音とされた「球根栽培の唄」――「球根栽培」とは爆弾製造のことである。 「球根栽培法」「栄養分析表」――当時の武装闘争を行なっていた者のあいだで出回っていた伝説的な地下文書――しかし、そんなことは、もう誰も知らない。 時代に取り残された彼女のたどり着いた場所がこのアルバムだというのなら、それはあまりにも寂しすぎる。 しかしそれは彼女の選んだ末の道である。 ファーストアルバム収録「地平線」の歌詞を改変したラスト・ソング「狼少年」。 そこにわたしは、雄雄しいまでの彼女の矜持を見て取る。 弱虫には弱虫の愛がある、任侠がある。彼女はそれを全うした。 そして、弱く、それゆえに美しい歌たちは空に舞い―― バブルの狂騒を前に、彼女は静かに人ごみに消えていった。 いつだって、本当の終幕というのはこんな風にあっけなく、さりげない。 |