山口百恵が沢田研二、ピンクレディーと共に70年代歌謡曲のトップランナーであったことに異論はないだろう。 が、山口百恵を語る時に「凛とした存在感」であるとか、「自己主張型アイドルの原初」であるとか、「ニューミュージックとのハイブリット」であるとか、「ツッパリ歌謡の源流」であるとか、そういった言説というのは今もファンを中心に語られるのであるが、何故かまったく語られない基本的な部分があるのでそれを少しばかり。 歌謡曲を聞くようになった早い段階で百恵作品に触れ、そして彼女の歌のファンになった私であるが、まず最初、なにより驚いたのが彼女の作品数の多さである。 73年5月のデビュー曲「としごろ」から80年11月に引退直後、結婚記念日に合わせて出したラストシングル「一恵」まで実働期間七年半でシングルを32枚もリリースしている。 年平均でいうと4枚以上だ。 かつ、オリジナルアルバムはなんと22枚。 こちらは年平均で3枚以上となる。 それに毎年の「百恵ちゃん祭り」のライブ盤が制作されている。 例えばこれを同時期のアイドルと比べると、沢田研二はシングル年3枚にアルバム年2枚、ピンクレディーはシングルは年4枚だが、アルバムは活動期間中4枚しかなく、かつ、それもCMソングメドレーが入っていたり、片面まるごと安易なカバー集だったりと、ろくな物がない。 また以後のアイドルのリリースペースを見てみる。松田聖子は年シングル4枚、アルバムは2枚。中森明菜は年シングル3枚にアルバムは2枚、それにミニアルバム、12インチシングルなどの企画盤が1枚。 河合奈保子は年シングル4枚、アルバムは年3枚プラス企画盤1枚と猛烈に出したかと思えば年1枚だったりとペースにムラがあるのだが、平均すれば年2.5枚といったところでこれも及ばないし、小泉今日子、中山美穂、南野陽子、工藤静香、WINKといくら探しても山口百恵に匹敵するほどではない。 つまりは、山口百恵ほどハイペースの楽曲リリースを重ねたアイドルはいないのだ。 というか、これは演歌やニューミュージック系、今のJ-popを含めた歌手全体でみても多分確実にトップだろう。 だって単純に延べでいえば年に38曲も新曲がでているってことになるんだから。(実際はシングルA面の半数以上はアルバムに収録されているのでこの数は多少は減る) これに加えて、山口百恵には女優として年2本の主演映画、「赤い」シリーズなどの半年の連ドラを一本持っている。 プラス、CMの仕事や「ザ・ベストテン」や「夜ヒット」などの当時多くあった生放送の歌番組にもほぼ毎週しっかり出演しているし、地方のコンサートや、今ではインストアイベントなどと呼んでいる地方のレコード店回りや新曲キャンペーンも行っているし、でもって、「噂のチャンネル」「全員集合」などのバラエティー番組にも、ちょくちょく顔出ししていた。 これだけの仕事を事務所はブッキングしたものだと感心するが、どの事務所にもアイドル管理の基本として「入れられるおいしい仕事はいれとけ」というのがあるらしく、実際アイドルは売れ出すと猛烈に仕事が入り、そしてほとんどのアイドルが倒れる。 明菜は「セカンド・ラブ」の頃、喉をやられつつも「ザ・ベストテン」に出場し、悔し涙を流しながら歌を歌ったし、中山美穂は「Catch me」の頃、無理無理のスケジュールなのに二人一役の主演ドラマに出て倒れた。南野陽子は「吐息でネット」の頃ぶっ倒れたし、沢田研二は「TOKIO」の次の曲「恋のバッドチューニング」で倒れた。 ピンクレディーはしょっちゅうケイちゃんが倒れたし、河合奈保子は「ムーンライト・キス」のころ、舞台から落ちて、骨を折った。 ぶっ倒れてはじめて事務所はそのアイドルのハードワークに気づくのか、以後スケジュールはたいてい緩くなる。 が、山口百恵が当時倒れて、長期休暇をしたという話は聞いたことがない。 よって事務所はまったく手加減することなくびっしりスケジュールを埋めたというわけだ。 結論、ホリプロは鬼だっていうことと、山口百恵の精神力と体力は凄まじいものだ、ということなのだが、もうちょっと話にお付き合いいただきたい。 この体力と精神力に裏づけされたハードワークが歌手としての力量を大いにアップさせたということ、また、ハードワークがメディアジャック的な側面を生み出し(ほぼ毎日、どこかしらのメディアで彼女の姿を見ることが可能であったのだから)、よって、多くの視聴者が彼女の存在をあたかも近所の娘かのように近しいものにし、引退以後の伝説を作り上げる土台となったということを忘れてはならない。 彼女のデビュー曲「としごろ」は、その声の薄っぺらさ、音程の不安定さに、まさかあれほどの大歌手に数年で変貌するとは思えないなんとも残念な出来なのだが、 そんなお世辞にもいい曲といえない初期、千家・都倉作品を歌いながらも彼女はじりじりと歌唱力をアップさせていく。 「白い約束」「愛に走って」の三木たかし作品でもう少しというところまできて(――この時期の百恵を平岡正明氏は「開きかけてしぼむ感覚」といっている。まったくその通りと私は思う。)そして「横須賀ストーリー」で阿木・宇崎コンビと出会い、一気に才能を開花させる。 この開花までの流れの速さはなにより、1.矢継ぎ早にさまざまな歌世界を彼女にが歌わせたこと(――この時期、シングルは「ひと夏の経験」などの性典モノが多いのだか、アルバムを見ると主演映画とリンクした文芸チックで内省的なもの(ま、うす――い内容なのだが……)であったり、あるいはファザコンチックで能天気なものもあったりと色々なものがある)。 2.演技などで多方面で情感を叩きこんだこと。3.意に添わない仕事をねじ込むことによってに百恵本人に負荷を与え、強度の自己疎外に陥らせ、反発としての圧倒的な自己解放を導いたこと、といったあたりが要因ではなかろうか。 また、「横須賀ストーリー」以後シングルは阿木・宇崎作品のツッパリ歌謡と谷村新司さだまさしなどの抒情フォーク作品を交互に出して安定した路線とぱっと見には見えるが、これは実はそうでない。 アルバムを聞くと実にさまざまな人材が彼女のために曲を書いている。 「泳げたいやきくん」の佐瀬寿一から、平尾正晃、鈴木茂、大瀧詠一、浜田省吾、井上陽水、来生たかお・えつこ兄弟、芳野藤丸、水谷公夫、梅垣達志、佐藤健、堀内孝雄、小谷夏(久世光彦)、糸井重里、森雪乃丞、松本隆、島武実、岸田智史、丸山圭子……。 アルバムも多種多様。 ロンドン吹き込みのロックアルバム「ゴ―ルデンフライト」、日本情緒がテーマの「花ざかり」、60年代SFがテーマの「COSMOS」、自叙伝風の「曼珠沙華」「百恵白書」、ロス録音のフュージョンアルバム「L.A.Blue」などなど。 これらのさまざまなそして凄まじい量の傑作、名作、意欲作、実験作、駄作、凡作、失敗作の内部競争の上に彼女のメジャーな名シングルが成り立っているのである。 これこそ、息つく暇なくハイペースリリースをしつづけていたがゆえの効果といえると思う。 もう一方彼女のメディアへの過度の露出が生んだもうひとつの効果に関してはちょっとアイドル論として壮大になってしまうので次の機会に。 イントロダクションとしていえることは、「アイドルとそのシステムはマスメディアが生んだ、資本主義社会の使徒であり恩寵であり福音である」ということ。 ちょっと電波チックな難しい話になってしまうので、あまりしたくないのだが、ただひとついえることはマスコミがよく使う「百恵神話」なるものは実は大袈裟な比喩でもなんでもなく、ただの事実にすぎない。 彼女は生きながら神話の人、神々の物語を生きる人になってしまったという事だ。(――ま、菩薩って言っている人もいるしね) じゃあ、百恵って、東京のど真ん中に住んでいる苗字のない聖老人とおなじなわけ? ということになるが、わたしはいう「おんなじなんじゃない」と。 だから、以下次回だって。 |
2003.09.04