メイン・インデックス少女漫画の館>私的やおい論  その2 「非やおい」と「やおい」  三島由紀夫と川端康成


私的やおい論  その2 

「非やおい」と「やおい」

三島由紀夫と川端康成



前回、桜玉吉の「なげやり」を取り上げて、「やおい/非やおい」が書き手の性別によって、あるいは男性同性愛をモチーフにするか否かで分けられるものでないこと。 また「やおい」とは三人称的妄想であり、愛の対象との断絶性がそこにあることなど、無駄に力説したけれども、 今回は他の作家からのアプローチを試みてみる。
ってエラソーなこともいいつつもただのやおい語りですから、お気楽に。


今回も個人的な話から。
まだ「やおい」という言葉を知らなかった頃、 三島由紀夫の「仮面の告白」とか読んだものの、私はまったくなんとも思わなかったのね。
なんかホモの人、必死だなぁ、くらいだったわけよ。同級生のもっさーと生えた腋毛見て勃っちゃいましたか。同級生を夜のおかずにしてましたか。でも今はホモ隠しで偽装結婚ですか。大変ですな。みたいな。感想としてはものすごぉく他人事だったのね。
この印象は後に「やおい」を知るようになってもまったく変わらないわけ。

一方、これも「やおい」を知る前に読んだ川端康成の、じっとりと愛撫するかのごとく、少女を観察する世界にはなぁんか妙に理解できた。
よくわからないけれども、おじいちゃんの求めていることはなんとなくわかるよ。とわたしは思った。

で、後年。この違い。自分のなかにある川端へのシンパシィーと三島への他人事感ってのは一体なんなのかなぁと思って、不意に気づいたわけですね。 あ、これが「やおい」と「非やおい」の違いなんじゃないかなぁ。と。


自身と自身の愛する対象とがセックスすることが最終目的ではない。ってのが「やおい」の基本だとわたしはひそかに思っている。

正直言って、三島センセの世界ってのは、自身が教養深く美美しい貴族の姫君かなんかになりかわり、そんな麗しい自分が下品で粗野で逞しい男に陵辱されればそれで幸せ、っていうゴール地点があらかじめあるような感じがあるのね(―――あ、この際に「三島由紀夫は同性愛者ではない」という反論は受けつけません)
ともあれ彼は理想とする「自己」という主体が強烈なまでに明確にあり(―――それは現実性の欠いたほとんど妄想的ともいえるものだ)、もちろん理想的な「他者」もそこにあり、かつ自己と他者を結びつける理想的関係性がこれまた明示されているようにわたしには見える。最終目標をしっかりと自覚しているように見えるのね。
しかし、自分は男であるがゆえにそのゴール地点には永久に辿りつけない。そこに典型的な同性愛者的不幸がうまれる。と。それが彼の文学の源泉になる、と。
そして最後は、理想的自己が現実の自己と激しく乖離したまま溝が埋まらないことに耐えられず、彼は破滅する。と。


一方、川端康成ってのはじっとりじっとり美少女を愛しつつも、いつもその愛の対象とのあいだに三島センセよりもさらに根深い断絶があるように見えるのね。
端的にいえば、川端センセは、どういう形で彼女らに触れればいいのかその方法がまったくわからない、見つからないような感じがあるのよ。 小難しくいえば、自身と彼女らとの間に結ばれるべき「理想的な関係性」ってのがあらかじめ失われているように見えるのね。

先ほど三島の例に倣ってあてはめると、川端には「理想的な他者」はいるわけ。もう、それは輝かしいほどのものが。しかし、それと対になる「理想的な自己」というものがまったく自身から見出せない。よって自己と他者を結びつける「理想的な関係性」っていうのが本人も皆目わからない。
川端センセは自己を美青年にも、少年にも、幼児にも、はたまた美少女や妙齢の美女にも仮託できないし、しきれない。 彼は「理想的な自己」という主体を描き出すことが不可能に、私には見える(―――これは彼の少年期の精神的形成によるところが大きいんだろうな)。

よって彼女/彼らを熱烈に愛しながらも、彼のそれは硝子の向こうのショーウィンドウを眺めるような愛にしかならない。 むしろ理想的な愛の形から常にあらかじめ自己が排除されることによって、他者とその愛の形を冷徹に観察し、描写するという特権(=神の視点の特権)を得ていると思いこんでいる様にすら思えるのね。 そしてそういった観察の一つ一つが彼の文学の源泉になっている。と。
とはいえ、自己を規定できず他者とつながることが出来ない彼は、常に寄る辺ない孤独な自己を抱え、最後はそれに耐えられず破滅してしまう。

言いかえれば、三島が主体を強化しすぎたがゆえに破滅した作家であり、一方の川端は主体を希薄化しすぎたがゆえに破滅した作家であるといえる。
三島由紀夫が川端康成を「つひに文体を持たぬ作家である」(「永遠の旅人」)と評したその「文体」とは、つまりは自己を規定する「主体」なのではなかろうか、私は解釈している。
―――ちなみに三島由紀夫は、文体とは「世界解釈の意志であり、鍵なのである」と述べている。これはそのまま自己・主体と置き換えても通じるものであろう。 それにしても、この批判が三島由紀夫からでたというのは皮肉としかいいようがない。



と、ここまで読んでヤオラーのあなたは川端センセのやっていたことがなんとなく自分たちのやっていることと似ているなあ、って思えません?
「なんで他人事のホモ話が好きなの」って他人事だからいいんだよ。自分などという不純な夾雑物が混じらないから。
物語内に自分の場所なんていらない。自分はいなくたっていい。むしろ私は作品そのものになりたい。ってね。
(―――え?「いろいろやおい読んだけれども、そんな感情をどよもしたことないよ」って。あぁ、そりゃあなた本質的にやおらーじゃないのよ、きっと。何かの間違いでやおい読んでいるだけだわ。)

なんで今回、川端康成と三島由紀夫の比較を行なったかということは賢明な読者の方ならもうお気づきですね。
そう、三島由紀夫は同性愛であり、非やおいの世界。一方川端康成は同性愛ではなく、やおいの世界(―――とはいえ川端にも「少年」という自身の少年愛をモチーフにした掌編があるんだけどね)。
「やおい」というものの構図がこの比較によってわかりやすいからに他ならない。

というわけで、「やおい」であるかいなかは書き手の性別でも同性愛モチーフにも寄らない、自己の在所のない妄想これこそが「やおい」である。という前回の補強のみで、今回は終わる。
次回は「やおいは書き手の性別によって、あるいは男性同性愛をモチーフにするか否かで分けられるものでない。妄想のありようにこそある」というこの主張をなぜ今私が推し進めているのか。という現在の「やおい論」の周辺の話にしたい。

2005.01.17
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