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安定ゆえの不安、松浦亜弥


どこまでもやる気に満ち満ちている人ってのはなぜか見るものを疲れさせる。
遊びたい盛りの10代の少年少女を掴まえて、心も体も一切の猶予も与えず縛りつけるのだから、アイドルというのは売れていれば売れているほど、どっか疲れていたり、剣があるものである。
それはどんなに作り笑顔が上手くてもわかる人にはわかる。
であるからこそ、妙に安定した作り笑顔に逆に私は不安を覚えてしまうのである。
なんの話をしたいかというと松浦亜弥の話である。

正直言って今の彼女は不気味だ。
何故アイドルとしてそこにいるのか、そういった演出されていない実存的な部分がまったく見えない。
何がしたいの??、目的は??、目標地点は??、まったくわからない。
その状況下で、アイドル仕事を完璧に一部の隙もなく演じている。
であるから、彼女の笑顔は不気味なペルソナと画面に映る。


実はアイドルとして初手から完成品であるというのはアイドルでない。
アイドルというのは、アイドルである限りどこかへなちょこなモノだ。
舞台に立つ者として未熟であるが、未熟であるがゆえに愛でられるそれがアイドルの本質である。
だから、アイドルというのは未熟でなくてはいけない。
その未熟さがファンやスタッフたちの手によって洗練され成熟へと向かう、つまりは未完成が完成へと向かうその過程がアイドルといわれるもののドラマなのである。
―――であるからその最高の傑作品、山口百恵がいまでもてはやされるのは至極当然なのである。

でもって、そのドラマを打ち壊したのは「永遠の少女」を標榜し、成熟を否定し、子供を産んでもアイドルを通した松田聖子に他ならない。
―――だから聖子はアイドル界の中興の祖でありながら、ユダでもある。

松浦亜弥が聖子の再来とまでいわれるほどの「本格派アイドル」として周囲に認知づけられる。しかし彼女が持つ「聖子的な部分」というのはアイドルとして忌避すべきユダ的な部分なのではなかろうか。
40になっても自分の音楽も自分の演技も見つけられず、何がやりたいのかまったくわからない、ただアイドル的な未熟ゆえの可愛さだけ完璧に演じる存在。
はたして松浦亜弥とそのスタッフはその位置に行きたいのだろうか。

とはいえ、デビュー3年である。
この暑苦しさをそろそろなんとかしなくては、次の展開が見えない。
若いのに新鮮さが老練さに変わってしまっているようでは、使い古された元子役タレントのようで見ていてつらいものがある。
彼女の可能性を信じての、松浦の秋の新CMを見て感じた苦言である。

若いんだから、もっとトンガって、わがままで、弾けたっていいんだぜ、松浦さん。
そのわがままさが輝きや可愛さに変わるのが、本物のアイドルなのだから。
中森明菜も小泉今日子も斉藤由貴も本田美奈子も中山美穂も南野陽子も、みんなみんなわがままでそしてそのわがままが画面の中ではとっても可愛かったということ―――スタッフがどう感じていたのかわしらんよ、を私は覚えています。


2003.10.23


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