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松尾スズキ
「この日本人に学びたい」


笑いすぎて困っちゃう

(1999.10/ロッキング・オン)


昨日、電車でこの本を読みながら笑いを必死に噛み殺している奴を見かけたというあなた。それはわたしです。 石を投げないでください。

いんやぁ、もう負けです。松尾センセに負けました。笑っちゃうんです。どうひっくり返しても笑っちゃうんだから仕方ないっっ。
や。大人計画のことはよく知らんのですよ、わたし。「マンハッタンラブストーリー」の土井垣さんと「恋は余計なお世話」の松尾ちゃんしか見たことないし。 あ、1回「大人失格」は読んだのかなぁ。でもあまりそれはピンとこなくて忘れていたんだけれども、や、これは面白い。ぱじゃない。

いわゆるゲーノー界・ワイドショー的な話題を扱ったエッセイ(―――ちなみにとりあげたタレントは、林葉直子、裕木奈江、石井苗子、坂井泉水、哀川翔などなど)なんだけれども、毒としょーもなさと独善と妄想が、ぱじゃないっっ。
もはや対象としているタレントから大きく話は逸れて、どこまでもどこまでもくだらないたわごとの樹海に入っていくわけだけれども、これがたまらんのよ。
しかもここまではずして来ると、ネタにされた当人もそのファンも怒るに怒れないだろうな、という。 これこそ松尾さんがこの本でいっている「テリー伊藤」理論なわけで、つっこめないほど逸脱してしまうと、受け手はそのまま認めざるをえないわけで。
ていうか、この本はタレントを素材に彼らの料理されっぷりを楽しむような本―――つまりナンシー関のような本、じゃなくってその素材を前におたおたあわあわと奇妙な動きをする筆者、松尾スズキを楽しむ本なわけよね。
だからさぁ、扱うネタのわりにワイドショー的な下世話な感じが全然しない―――陰湿な感じがしないし、だったらお前はどうなんだよ、という気分にもまったくならないのよ。取り上げた人がうんぬんでなく、結局この人自身が面白いから面白いのな、という。

て、こんな本をわたしはどこかで読んだことがあるぞ……。

あ、野田秀樹だ。
野田秀樹の「この人をほめよ」とか「おねぇさんといっしょ」とか「向こう岸にいった人々」とか。アレだ。
あの現実をネタにいつも最後は自分勝手な妄想世界(―――演劇的空間)に飛躍していく、という野田秀樹のエッセイ。 ってここで野田秀樹の名前を出すのは松尾センセにとっても野田センセにとってもあまり気分のいいことじゃないかもしれないけれども、ただ、この「この日本人に学びたい」に限ってはやっぱり「この人をほめよ」とかあたりを意識したんじゃないかなぁ、と思うんですが、どうなんでしょうか。 日本の演劇事情に詳しいそこのあなた、どう思います?

ただ比べるとやっぱり書かれた時期からか、それとも二人の性格の違いなのか、 野田秀樹は「80年代・陽・アッパー系」という感じで、比べて松尾スズキは「90年代・陰・ダウン系」という感じがする。なんか現実の重みというか、かったるさみたいなものが背中にはりついていて、その重みに耐えきれず逆ギレしているという感じの弾け方だし。
あと松尾センセの方がきっと生真面目で、ちょっとばかり小心なのかも。ものすごいこと書いていながらあとで結構こまめにフォローしているところがいくつが見受けられて、そこになんだか中年のペーソス漂って素敵です(―――あ、これはエッセイに関しての話ですからね)。



あ、そうそう。この本の一節に痛烈なネット批判があったので、ちょっと紹介。


あのね、ネットの嫌いなところを言いましょうか。だって基本的に文章で成り立っているメディアであるのに文がね、垂れ流しなんだよ。 発言力(ヂカラ)のない奴らが「でも発言権はあるよね、あるよね俺ら。だって民主主義社会だもんね」って確認しあう「ぬるい場所」。そういう意味では非常に魅力ないね、ネットという奴は。

……(略)……

頭いいも悪いも、あんまり関係ない。文章が面白い奴。顔がいい奴。人柄が面白い奴。そういう人に世間的に発言権があるように見えるのは、彼らにそもそも発言ヂカラがあるからで。 だからね、ネットがぬるい感じがするのは、ただ物を知っているというだけで、文章がへたな奴ら、きっと顔の悪い奴ら、なんか人柄がギスギスした奴らが、のうのうと含羞の余裕もない、 いわば「含羞力」のないフィクショナルな発言権を行使して傷を舐めあっている、みたいな点につきるわけですよ。


ひゃーーーーっ。ぬるい言葉で傷を舐めあってごめんなさぁ――い。
頭も顔も悪く面白くない奴なのにつらつらエラソ――に垂れ流しでごめんなさぁ――いっっ。
思わずアメリカ・ザリガニのように土下座しながら高速で後ずさりしてしまいます。
でもでもでも、今やネットも「おつきあい」文章で周囲にへつらおうとも、個々の発言力(ヂカラ)の有無で言葉の効力の範囲が決まる世界になりつつあるような気がしますが。ってネットで文章垂れ流しにしている自分に対する言い訳はいいとして、だ。

確かに、知識はあるみたいだけれども、ギスギスしていて面白味にかける人っていうのは現実世界と比べてやたらネットでよく見かけるなぁ、と思うわけで。
例えば、ある歌手とか作家とかの評論本やレビューなんかを読んだりして「うわっ、面白いなぁ」と感心してネットで他の人の評価を調べたりするじゃないですか。
ていうと、大抵「ここが事実誤認。ここが思い違い」などと、いちいちをあげつらって「読むに価しない」とか「そもそも作者の○○へ対する愛が足りない」て評価を下す奴が必ずいるのね。

俺のほうが正しい、俺のほうが詳しい。お前のいいたいことはわかるよ。お前のほうが作者よりも○○のファンでよくわかっている、偉い偉い。でもな、お前の文章はただひたすらに糞つまらんのだよ。 俺は面白い文章が読みて――んだよっっ。事実とかはむしろどうでもいいんだよ。
小林秀雄が言っているだろ。「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」って。
評論だって、自分の夢なの。ドリームなの。妄想なの。その妄想にどれだけ説得力をもって、相手にとって面白く、興味深く聞こえるように語るか、というそういう作業なの、評論ってのは。 だから極論すれば、評論なんてものは、そのままの事実をそのままで受けとめなくても全然いいの。事実を筆者の妄想にあう形に取捨選択して、時には歪めたっていいのっっ。面白くて説得力があって一定の整合性があればそれでいいの。そういうものなのっっ。 つまり、話はお前のテキストがこの筆者レベルに面白くてためになってから、それからなんだよ。知っているというだけでエラソーに上から目線になるな、馬鹿。
といいたくなることは実に多い訳で。ってこれもまたいい加減な事実認識で偉そうにテキストを挙げまくっている自分に対する言い訳にも聞こえるなぁ。あぁもう、言い訳ばかりになってきたのでやめやめやめ。


強引に話を戻してまとめる。
ともあれ、他の本も読んでみようっと。 サブカルに詳しいそこのあなたっっ、是非とも次読む松尾センセの本は何がいいか教えてくださいませ。
やっぱ「同姓同名小説」?それとも「宗教が往く」?

と尋ねている間に偶然ビデオに納めた「恋は余計なお世話」でももっかい見よっかな。 あれ、主題歌といい、科白の一つ一つといい、役者といい、あらゆるモノが大爆笑だったもんなぁ。 (―――あ、「恋は余計なお世話」に関しては今回はめんどくさいんで詳細はナシの方向で、知りたい人はgoogle先生にでも聞いてくださいな)

♪ 川魚〜川魚〜 わたしの涙は 粘液〜 粘る液〜

2005.02.04
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