なぜだろう。どういうきっかけか全く覚えていないが、高校生の頃のわたしはカルメンマキ&OZの歌ばかりを聞いていた。 その頃のカルメンマキは結婚・出産による休暇中でライブをやったりメディアに顔を出したりというのが全くない時期だったし、「カルメンマキ&OZ」というバンドも解散して10数年という月日を経ていて、人には全く知られないバンドとなっていた。 が、なぜかわたしはどこかでカルメンマキ&OZの名前を知り、彼らの歌を聞き入っていた。 マキのタイトでパワフルなボーカルとOZのメンバーの分厚くハードでドラマティックなサウンドにわたしは痺れていた。 カルメンマキ&OZの歌は、そのどれもが、その頃の私と強く結びついている。結びついて離れない。 どこへ行きたいと聞かれたら学校をズル休みすることさえおびえていたその頃のわたしにそんなことができるはずもなかったけれども、 それでも、いつかこの灰色の矩形の教室を飛び出し、住みなれた町を離れて旅立つことを、私はいつも、夢見、憧れていた。 その日がいつ来ることかもかわらず、けれども日々の憂鬱のなかでわたしは待っていた。 白い日記を破りながらどこか高い場所――この学校の校舎の屋上、あるいは街が一望できる丘で、わたしもこの白いノートを破っては紙飛行機で飛ばしたならどんなに気持ちのいいことだろう、そうひそかに思っていた。 忘れたい何かが、捨て去りたい何かがあるわけでもないのに、なぜか私の感傷はそれを求めていた。――結局そんなことは一度もしなかったけれども。 ◆ カルメンマキ&OZの最大の魅力というのは、抒情性にあると思う。 もちろん、当時の邦楽シーンにおいて絶無であったハードで骨太なギターサウンドも彼らの大きな魅力のひとつであるとは思う。 彼らは日本ハードロック界の源泉と云ってもいいだろう。 ギターがベースがドラムがキーボードがそれぞれが高度に主張し、拮抗しあう緊張感の漂った完成度の高いサウンド、そこに真っ赤な血のように鮮やかで激しいマキのボーカルが雲海を舞う龍のように自由自在に咆哮し駆けてゆく。 30年近く前のサウンドとは到底思えない掴みの深さが今でもそこにあると、思う。 しかし、彼らが私にとって本当の意味で特別になったのは、そのハードロックのサウンドとしての完成度の高さもさることながら、 奔流のように溢れる詩情がそこにあったからだろう――と、当時を振り返ってそう思う。 代表曲「私は風」にはじまり、「Love songを歌う前に」「南海航路」「昔」「26の時」「六月の詩」などなど、彼らの歌の底流に必ずあるのは、豊かでいてそれでいて乾いた抒情性であった。 思春期の苦さや甘さ、懊悩や稚拙さや暴走、何かに浮かされたようにほとばしる激情と波のように絶えず寄せる感傷――景色を写真が閉じ込めるように、彼らのレコードにはそんな青い日々の記憶がそのままの形でそこに鮮やかに閉じ込められている。 多分、マキや春日博文などメンバーにとっても「カルメンマキ&OZ」というバンドは特別なバンドだったのであろうが、それは聞く私たちにとってもそうなのではなかろうか。少なくとも私にとってはそうだ。 カルメンマキ&OZの作品は、周りの誰も自分すらも許せず、そのくせ傷つけられるのを何よりも怯えていたあの頃のわたしの記憶に強く結びついている。 それは遠い夏の思い出のようなもので、心は常に2つの矛盾する"忘れたい"という思いと"忘れたくない"という思いで拮抗しあっている。 だから、彼らの歌にもう一度触れるということへの怖れが、私の心の中にほんの少しばかりある。 あまりにも何もかもが鮮やかに甦ってきてしまうのだ。 ……何故あの時こんなことを云ってしまったのだろう。……何故あの時こうできなかったのだろう。 聞くたびに、苦い喜悦が心の底から湧きあがってきて仕方ないのだ。 ◆ カルメンマキ&OZの一枚選ぶとすれば、77年10月の東京厚生年金会館のライブと、77年5月の日比谷野外音楽堂のライブを収録したライブ盤『LIVE』を薦めたい。 彼らは当時から自前の照明やP.Aのスタッフチームを抱え、現在のコンサートツアーという形態の先鞭をつけたバンドであるそうだが、彼らがまさしくライブバンドであったことが証明できる一枚といえると思う。 この激流のように勢いのある、ゴリゴリと押し迫ってくる荒っぽいサウンドは、まさしくハードロックの、そしてライブのバンド。どの曲も完成しつくされていて、スタジオ録音盤よりはるかにいい。 サウンドが一体となってまるで生き物のようにひとつのおおきな情感の塊を作り出していて、聞く者はその渦中へ飲みこまれざるを得ない。 もちろんセットリストも彼らのベストとして相応しいとわたしは思う。 どの曲もすばらしいのだが、2枚目後半の「26の時」〜「空へ」〜「私は風」の流れは圧巻。 センチメンタリズムと激情というカルメンマキ&OZの二面性が最もよく出ている流れではないかと思えるし、 なによりラストの「私は風」が素晴らしすぎる。 元々10分を越える長大曲がメインのカルメンマキ&OZであるが、ライブ盤での「私は風」は収録時間17分も及び、 壮大なハードロック抒情詩となっている。 この歌はご存知の方も多いと思うが、詞がひとつの大きなドラマになっており、歌の中で感情が悲嘆→爆発→激情→白溶→終息→再生へと変化するのだが、このライブでは、マキのボーカルとOZのサウンドのダイナミズムがもう、なんだかものすごいことになっている。 あまりにもの完成度に私は唖然としてしまう。これ以上は絶対ありえないという決定版(――ちなみにマキは冒頭泣き崩れているのか、一瞬、歌につまり、一言"――一シビア"と呟くのだが、アレがもう、凄くいい)。 もちろんマキ&OZのベストアクトであるし、カルメン・マキという歌手の名唱であると私は今でも思っている。 後に「私は風」は中森明菜がカバーすることになるが、明菜の歌唱はマキとはまた違った寂寥感が出ていて素晴らしかったのだが、千住明のオーソドックスなオーケストレーションはこのライブのマキ&OZの分厚いサウンドワークにはちょっと及んでいないかなぁ、と私は感じた。 ◆ カルメンマキ&OZ解散以後、マキはソロになったり、LAFF、5Xなど様々なバンドを結成したり、子供を産んだりと色々あり、また他のOZメンバーも散り散りになって、遠くなり、 そして、解散10数年後にこのアルバムを必死になって聞いていた私も遠くなってしまった。 もう二度と、マキ&OZに出会うことはないのだろうが、とまれ、このライブ盤にはまさしく「カルメンマキ&OZ」というべき、青臭くも熱い瞬間がそのまま封印されていて、やはり名盤といわざるを得ない。 これは帰れない場所にある名盤という、そんな印象である。 |