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追悼 ・ 久世光彦

(「聖なる春」/新潮社/1996.10)


 私が高校生の頃だから、もう10年以上前になる。
 その頃に、わたしは作家・久世光彦と出会った。

 確か、最初の出会いは、榊原史保美の小説「雪うさぎ」の文庫判の解説だった。
 その頃の私は、高校生らしいスノビズムで、中井英夫や森茉莉、赤江瀑、夢野久作など、耽美・幻想的な作家に傾倒していたのだが、 その「雪うさぎ」の短い解説に、私の求めている阿片のような、あやしく甘い匂いをわたしは感じ取った。
 そして、彼の本をわたしは手にとった。

 どの本を一番最初に目を通したか、それはよくおぼえていない。 まだその頃の久世光彦は、「怖い絵」「蝶とヒットラー」「昭和幻灯館」といったエッセイとも私小説ともつかない掌編集を数作上梓していたのみであったし、 それらのどれもがまだ文庫化されていなかったし、本屋や古本屋で彼の本を見つけることもほとんどなかった。まぁ、簡単にいえば、作家としての彼はまだ売れていなかった。
 おそらくわたしは、図書館で彼の本を何冊か借りて、そして読んだのだろう (――それは、金のない高校生のわたしのいつもであった。わたしとって、図書館はあらゆる世界の入り口で、かくされた金鉱の眠る広大な山脈だった)。
 そして、わたしは久世光彦の世界に溺れた。

 久世光彦の文字の向こうに広がる世界は、わたしにとって、もっともしっとりと肌になじむ、華麗で残酷で、妖しく輝く、もうひとつの真実の世界だった。
 わたしは入眠儀式のように、あるいは夜更け、あるいは休日の遅い朝、あるいは風邪の治りかけた午後、うつらうつらと彼の著作を、とつおいつ、何度も読み返した。
 眠りの波打ち際、現実と夢の世界の狭間に、彼の作品はもっとも似つかわしい。 わたしは、そのように、半夢半醒で彼の作品を受け取ったので、 はたしてそれが私の見ていた夢なのか、それとも久世光彦がわたしに見せた夢なのか、判然としない――そんな夢がいくつも、ある。



 わたしにとって久世光彦の著作は、夜更、ふすまの一枚向こうから漏れ聞こえる大人の会話のようなものだった。
 両親の、あるいは親戚の、あるいは父の仕事仲間の、そういった会話を、子供は、意味もわからないくせに、じっと耳をすませるものだ。 そして、言葉のわかる部分と語気で、なんとなく全体の意味を推し量ろうとする。 なんども出てくる意味のわからない言葉はいったいなんの呪文なのだろうと、翌朝まで覚えていれば、辞書を引き出して調べるだろう。
 久世光彦の世界は、それが年老いた贋作絵師の話でも、失われた日本語の話でも、白痴の娼婦の話でも、右翼の青年将校の話でも、親交のあるテレビタレントの話でも、 それはわたしにとっては、大人の世界の話だった。
 ふすまの向こうを盗み聞きするように、わたしは久世光彦から精神的な部分のさまざま――なにが美しくなにが汚く、なんのために人は生き、夢を見るのか、を盗み取った。 そして今まで知らなかった、あるいは興味の向かなかった絵画や、小説、映画を、たくさん知った。
 久世光彦は、決して、わたしやわたしたちの世代にふりむきはしなかったけれども、わたしにとっては、まさしく師たるひとりであった。



 その後、彼はまもなく「1934年冬、乱歩」で山本周五郎賞を受賞し、盟友・向田邦子をテーマにしたエッセイ「触れもせで」を上梓し、作家として、一定の評価と売上を得、 以後、作家活動を広げていくことになる。
 手に入ることが難しかった作品の文庫化もすすんだし、エロチックなラブコメディーや、ワイドショー的スキャンダルをモチーフにしたコメディー、下町情緒を描いた小話、ビジュアル系時代小説など、彼の描く作品の範囲も広がっていった。 わたしが最初に出会った、自らの信じる美に殉ずるきびしい作品も、もちろん書きつづけていった。 老境に入ってからの作家活動であったが、30冊以上の著作を、久世光彦は残した。

 彼が「古き良き日本の情緒を映像で、文章で残した」のは、確かに事実である。 「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「触れもせで」「ニホンゴキトク」「大希林」――、それらはまさしく久世光彦の世界である。
 しかし、わたしには、それだけでは、物足りない。
 彼は、味噌汁の湯気のような、懐かしくも親しみやすい世界を作り出し、多くの人に受けいられる一方で、 くだけた硝子の破片のごとく、迂闊に手を触れると指先を血で汚してしまうような、妖しく危険な、ひとりひそやかに見る夢幻の世界を、作り出していた。
 「陛下」の、「早く昔になればいい」の、「怖い夢」の、「聖なる春」の久世光彦こそが、わたしにとっての、かかせない久世光彦である。



 わたしの知る素晴らしい作家は、みなすでに物故しているか、断筆している。
 作家は死して伝説になって、はじめてほんとうに作家になるのだとわたしは思っている。 だから久世光彦が朝霧ようにふいにこの世から消えてしまったのが、悲しいとは、わたしは思わない。

 わたしのもっとも愛する彼の著書、「聖なる春」は次のようなシーンで幕を閉じる。

 ≪聖なる春≫を待ちつづける老いたクリムトの贋作画家である「わたし」。 みずみずしい果実に腐敗を、若々しい肉体に老醜を見る不思議な少女、キキ。 すべての始まりのような春の朝に、末期の「わたし」の瞳に映ったのは、ふたつの肖像だった。
 ひとつは、いままで贋作しか描かなかった「わたし」の、はじめて描いた「キキの肖像」。 もうひとつは、いままで老醜しか描かなかったキキの描いた「わたしの若き日の肖像」。
 そのふたつの肖像は、奇跡のように、生き生きと寄り添っていた。
キキは、描いた。私は、描いた。 ――私のすべての部分から急速に力が失われていく。 人生そんなに悪いものじゃなかった。 キキには悪いけれども、私が最後に眼に映していたのは、私の肖像だった。 そして、その肖像もゆっくりとぼやけていく。 ――その時、薄れていく意識のなかで、私は規則正しく近づいてくる足音のようなものを聴いた。 それが朝のパンとミルクを買って坂道を上ってくるキキの足音なのか、それとも、とうとうやってきた≪聖なる春≫の足音なのか――私には、もうわからなかった。
 久世光彦もまた、「わたし」のように、静かに≪聖なる春≫を迎えたのだろう。
 そうして、ひとりの作家が、また伝説となる。
 それで、いい。



追記

 ネット上には、作家・久世光彦をとりわけ良く扱っているサイトがどうやらひとつもないようだ。 その驚きとともに、急ごしらえで久世光彦の全著作リストを編纂してみた。
 わたしに全作レビューできるほどの筆力と見識のないことがなんとも残念だが、 リストを見て、なにか心に惹かれるタイトルがそこにあるなら、ぜひとも手にとって欲しい。


2006.03.10
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