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栗本薫という作家をふりかえる 〜「メディア9」より〜

(「メディア9」/1982.05/徳間書店・角川文庫)


高校生の頃、 友人に「なにか読むものない?」 といわれて、わたしは鞄のなかにあった栗本薫の初期の短編作品――「天国への階段」だったかな、を渡した。
読みおえた彼は、「この人の作品、好きじゃない」といった。
なんで? と、訊きかえした私に、彼は少し考えて、
「論理的じゃないから」
と、こたえた。
論理的、じゃねーーよなーーー、栗本薫。確かに。



ひさしぶりに彼女の長編作品――「メディア9」を読んだ。
これは、82年出版の著者初の長編SF作品なのだそうだが、 この作品も、彼女の作品のいつものごとく、やたら文体が平易で漢字が開いていて、、かつキャラクターの流暢がすぎる自己開示がすさまじく、 そしてこれが最も重要なポイントなんだが、異様なほどに印象的な言葉、感動的なシーンが連発して、涙をそそる。
読みやすくって、なんかいい話のような気がする。
の、だ、け、れ、ど、も。ふと、冷静になってストーリーの骨格を俯瞰で見ると、 ……なんだこりゃ、いらないところだらけやん。
びっくりする。
なにこのストーリーのパッチワークぶり。なにこの手癖爆発。 賭けてもいいけれども、ぜったい、薫、書き始めの時点で、ラスト考えてないだろ。

うなぎが云っているようにこの話は、ブラッドベリにはじまって、ハインラインにいって、小松左京で終わるんだけれども、 その展開が、まぁ、見事に関係ない。
感動的な科白で、うっかりだまされるけれども、これ、ほんと、脈絡ないっす。 ラスト、スペースマンのパパが登場するところとか、ねえ、こういう話のしめ方でいいの、という。
や、思わず、ノートに書き留めたい素敵な言葉はホントいっぱいあるんだけれどもね。 とはいえ、話の骨格がこれで、いいのか、と。



栗本薫ってのは、自身は長編の人だと思っているけれども、 正味の話、作品の完成度でいえば、長編よりも短編のほうが(――実に残念ながら)高いと思う。 なぜなら、栗本薫ってのは、思想性とか、世界観の人でなくって、文体の人だから。

結局、彼女の作品の魅力って、巧妙な語り口、それにつきるんだよね。
どこかで聞いたような話を、どこかで聞いたような口調で、これでもかとなめらかに語りまくり。 情動的に、直感的に、語りまくるのですよ。ぼくらの薫は。

だから、まぁ、短編だと、そのトウトウたる語りが、物語の世界を破綻させる前に終えることができるんだけれども、 長編になると、これがねぇ、ツッコミポイントがぼろぼろぼろぼろ、と。 「面白い/面白くない」とは別に「これって、どうなのよ」という矛盾点やら、論理の破綻やら、迂闊な科白、萎える場面が、こう、素敵な感じに散りばめられるわけで。
ま、グインサーガといい、魔界水滸伝といい、伊集院大介シリーズといい、 「実は、いまのところ、大長編作品を、晩節を汚すことなく、高水準のままに完結させたことがひとつもない」栗本薫先生ですから、そんなものといえばそうなのかもしれませんが。

さらにつっこんで云うと、栗本薫ってのは、実は、文体模写の人なんじゃないかなぁ、とわたしは思っている。 確かに何々風ではあるけれども、それが「彼女の表現」になっているか、というと、これが実になやましく、 SFも、時代物も、ミステリーも、やおいも、何でもかけると思っている内実、ただの「ものまね」なのでは、という、そういう部分もあるような感じがして。
つまり、栗本薫は文藝界の清水ミチ子なんじゃないか、という。 って、またとんでもないこといっているな。

シミチコさんが、五分間桃井かおりを貫き通すのは容易にできるけれども、一年間ずっと桃井であることは不可能なように、 栗本薫は、短編ならば、左京風なら左京風、森茉莉風なら森茉莉風と、そのものまねを貫きとおせるものの、長編になると、どうしても破綻する、というか、そうなんじゃないかな、と、わたしは思ったりもするのですね。



「ものまね」といったら語弊があるかな。
つまりは、自身のリスペクトする作品、作家など、既存のあらゆるリソースからエッセンスを汲み取って、再生する技術、 いわゆる、サンプリング的な技術、これにすぐれている。もう、これだけはバカみたいにすぐれているのですよ。
そう考えると、栗本薫は、文藝界の筒美京平といってもいいわけで、って、今度は褒めすぎか。

ただ彼女の場合は、そのサンプリング技術の向こうにある彼女の内実というのが、実にみすぼらしい、というか、がらんどうというか、 孤独で痛々しい。そこがね、なんともかんともなわけで。

勝手ともいえる解釈だけれども、中島梓名義の初期の評論「文学の輪郭」、「わが心のフラッシュマン」などを読むに、 自身の創作が、副次的な創作であること、メタフィクション的であり、サンプリング的であること、を明示しているし、 その文脈で、桑田圭祐やつかこうへいへの共感を示しているし、 また薫名義の作品でも、初期から中期のものは、卓越したサンプリング技術の鎧の内側にいる自分――なにも自らの手にしていないみすぼらしく、つまらない少女や少年をよく作品に登場させ、 これが実に印象的なわけで、 あながちこの解釈は外れていないんじゃないかな、とわたしは思いこんでいる。

ひとりの、とるにたらないと周囲から思われている少女が、あらゆる他の作品から受けた不定形のインスピレーションの塊を再構築して、もうひとつのなにかに作り変える。 結局、栗本薫という作家を評価する、とすれば 「不愉快な自己の小状況を捨象せんがために、他の創作を触媒に、自己と無関係な、華麗かつ独善的な物語を再生する、『アニパロやおい少女』の最もすぐれた作家である」 という、この一点につきるんじゃないかな。



彼女は、浪漫の人でも、物語の人でもなく、「浪漫や物語の人になりたいと思っている人」だ、と。 文体の装いの向こうにいるのは「ひとりのやおい少女」にすぎない、と。
本人も昔は、そのことに自覚的だったわけだけれども、演劇をはじめて以降はなぁんか、勘違いしちゃったようです。

とはいえ、まあ、いまでも好きなんですけれどもね、栗本ヘンへ。
ま、近作をまったく読んでいないからそんな能天気なことをいえるんだ、と、うなにいわれそうですが、 やっぱデビューから10年くらいの作品は、出来てない部分、へんてこな部分、悪ノリの部分も含めていとおしいな、と。 やっぱさ、わたしもやおらーだから、こう、自分の内面と照らしあわせて、 否定できない部分があるのです。



2006.01.20
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