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倉木麻衣の悲劇

贋物は贋物であってこそ美しい


何故か、今更倉木麻衣を聞いていたりするわたし。 倉木麻衣、近頃メディアで見なくなったよなあ、というかそういった話題すらあがらないほどポップス界における存在感が希薄になったよなぁ、彼女。
去年とちくるって百恵ちゃんの「イミテーションゴールド」カバーして、これまたとちくるって今更紅白にしかも東寺からの中継で出て、今更の「Stay by my side」歌って、で正月にこれまでの仕事納めのようなベストアルバムをだして、 あれっ、それから今年の仕事は??シングル1枚だけ!?しかも出たことすら忘れている!?そんな倉木麻衣の2004年もそろそろ終わろうとしているわけですよ。4年前300万枚もアルバムを売った歌手が既にフェードアウト状態なわけですよ。
そんな彼女の閉塞状況を考えるに、彼女って結局「お前って宇多田ヒカルのパクリやん」騒動からずっとボタンの掛け違いをしているんじゃないかなぁ、と思ったので、今回はその話。


前提に、デビュー時に彼女が宇多田ヒカルのパクリとしてポピュラリティーを得たという事実がまず、あるわけだよね。
楽曲・歌唱法にはじまり、プロモーションビデオであるとか宣伝戦略にいたるまでの完璧な「擬似・宇多田ヒカル」戦略で攻めて(―――レコードショップでは宇多田の後に彼女の曲をかけてもらうようにしたとかしなかったという話まであったりする。)結果ファーストアルバム「delicious way」は300万枚を超える大ヒットを記録する。

「delicious way」は今の耳で聞いても、擬似宇多田としてものすごく良く出来たいい作品だと思う。 宇多田調のスモーキーで哀愁漂う倉木の歌声に、楽曲はというと宇多田的なR&B色を薄めて、その薄めたぶんだけ典型的J-POP成分なテクノ・ユーロ調を足して、大衆性を一気に上げて、誰にも拒めない口当たりの良さに仕上げましたという、つまりは「バッタモノ」として完璧なしあがりだったと思うのね。
でもって、そういった「バッタモノ」感ってのは、まさしく「ビーイング・ポップス」の象徴だと私は思うわけですよ。
山口百恵が引退したから三原順子を擬似百恵でデビューさせるような、TMネットワークがメジャーになった途端、擬似TMでダンスポップスなB'zをデビューさせ、そのB'zがトップに立ったならそっくりのWANDSデビューさせるような、そんなビーイングは一言でいえば「バッタモノ」だとわたしは思う。


ビーイングの理論ってのは、簡単にいえば「本質より表層」「オートクチュールよりプレタポルテ」「『高いけれどいい』でなく『安くて悪くない』」だと思う。
「何を表現したいからこういうスタイルに」でなく、その音楽形成の過程をすっ飛ばして、スタイルだけを巧妙に真似て、そのかわり口当たりだけを良くしたニセモノの音楽。 ひとつの音楽を構築するに試行錯誤を繰り返して一段一段を丁寧に作り上げていくのでなく、どこかの誰かが作った優れたものを上手く剽窃し、そこからより簡便により低価格でより大衆性のあふれた大量生産に見合ったものに作りかえる、そういう音楽なんじゃないかな、と思うのよ。
でね、このやり口ってのは戦後の日本のポップスの作り方でもあり、もっといえば近代の日本のシステムそのものなんじゃないかなぁ、と思うのね。

西洋から流れてくる様々な文物を、いかに日本に見合った形で、いかに低価格で、いかにユーザビリティーをあげて、作り変えていくか。
この既に出来あがったモノをどれだけブラッシュ・アップさせていくか、という作業は「日本」という国で明治期以降ずっと行われていた作業だと思うし、現代に続く日本の文化の特徴でもあると思うのですね。
そりゃ個人的にいえば「ビーイングポップス」自体は嫌いだけれども、そういった日本文化のひとつの形に即応した音楽が「ビーイングポップス」といえるわけで、そこから垣間見える「音楽はイデオロギーではない。ファッションやスタイルに過ぎない」というアイロニカルな姿勢は商業音楽として正しいと思えたし、ゆえに売れる意味というのもわかるし、だから、「アメリカでの活動履歴のある本格派の天才少女」である宇多田ヒカル出てきてすぐに、純日本製のバッタモノの倉木麻衣がビーイングから出てきた時も、むべなるかなってところだったわけよ。


で、そんな倉木麻衣が宇多田の影法師でトップに立った途端「倉木麻衣のパクリ」騒動が、もはや必然という状況で発生する。
その時に「パクリなんてひどい」「うちの倉木が傷ついてます」なんてナーバスに対応したのは非常にまずったんじゃないかなぁ、と思うのね。

それは楽曲単体ではなく、方法論としての「パクリ」だったわけだけれど、ともあれ彼女の音楽は宇多田ヒカルをお手本にし、より大衆性を高めJ-POPよりに作り上げたものであることは自明であったわけだし、ここで言い訳するのはあまりにもみっともなくみえた。
―――いや、この時は「言い訳」などという生易しいものじゃないな。ほとんど「逆ギレ」だ。 よく学生時代にクラスに必ず一人はいる、涙を流して傷ついたような顔しとけばどんなことでも切り抜けられると思って平気でルールを破り周囲をかき乱す迷惑な女子そのものみたいなリアクション。

この時に倉木麻衣は2つの十字架を背負わされたと私は思う。
簡単にいえば周囲には「なんとなく下手なこといって茶化したり出来ないような気まずい佇まい」を与え、自らは「擬似・宇多田ヒカル的な部分から抜け出すこと」が今後の課題となってしまった。

実際彼女の音楽はファーストアルバムのみを残してまるで「擬似・宇多田」であった過去を拭い去るようにどんどんふつーのしょーもないJ-POPへ、毒にも薬にも笑いにもならない退屈なビーイングポップス化の道へと辿っていく。――――贋物なら贋物らしくニセモノとして堂々としていれば良かったものの本物めかそうとするから、惨めになっていくのだ。「Feel fine」を聞いた時には近田春夫でないが、さすがにどうかと思ったよ。狙いで笑わせたいのか、ただ天然で笑われている状態なのか。
また「お笑い」にするしかない出来事がその後も次々彼女の周りに起こるものの、いまいちネタとしていじるのをはばかれるような、腫れ物に触るような扱いを周囲から受けるようになる。――――やんちゃしちゃった「倉木のパパ」も、大学入学の会見もそうだし、楽曲でいえばMi-keのようななにかのパロディにしか響かない「Stand up」とか「Feel fine」などがそうだろう。このしょーもない物事を笑いとして許さない雰囲気というのはどうかと思うよ。この息苦しささが、一部の萌えファンと足の太い女子高生のみの音楽に彼女の音楽を縮めてしまったと思う。


あの騒動の時「倉木が宇多田のパクリだ」といわれても「どうです。上手くパクったでしょう」と泰然とスタッフは笑っていればよかったのだ。 そしてこういえばよかったのだ。「でも宇多田ヒカルさんよりも、うちの倉木のほうが聞きやすくて耳に馴染みやすいでしょう」と。
そうして堂々と偽者の優位性を見せつければ良かったのだ。
「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、贋物には贋物の強みがあるのだ。

しかし、実際はそうやって贋物としての思想性を強化することなく、擬似宇多田として突き進むこともなく、笑えないギャグのようなお寒く、ただひたすらに危なげのないだけののっぺりと平板な「ZARDの後継」という位置へと落ちついていく。

私は「天然モノのうなぎの蒲焼」しか口に入らんなどと言う本物志向の人間に疑いの目を向け、「うなぎの蒲焼」だろうが「アナゴの蒲焼」だろうがおいしければどっちでもいいじゃん、という人間なので、是非とも上等な偽者として倉木麻衣にはがんばってほしかった、というのが本音だ。
―――「Love, day after tomorrow」とか「Never gonna give you up」、「Perfect crime」などは本当によく出来ていると思う。「天然モノのうなぎ」さんは年に数作しか新曲出さないし、だったらこれで別に充分賄えますよ、とオススメできる「アナゴ」としてしっかりした出来で、 つまりはサザンがいなけりゃチューブがあるよ、な世界がきちっとできていると思うのですよ。
それを何を勘違いしたのか質のいい贋物から質の悪い本物を目指すようになり、気の抜けたビールのようなつまらん曲ばかり作るようになりおって、売上だだすべりで、しまいにゃカバーするは無意味に紅白出るはと迷走しだして、で、この結果ですか。まったく。
「delicious way」だけの人だったかなぁ、などと残念に思ったりする今日この頃。もうひと華、はないかなぁ。やっぱ。惜しい。

数年後、三原順子が後に山口百恵や中森明菜の物真似でフジ系の「ものまね王座決定戦」に出たように彼女が宇多田ヒカルの物真似で出るような気がしてならない。


2004.10.30
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