×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

メイン・インデックス歌謡曲の砦>中森明菜 「帰省 〜Never Forget〜」


中森明菜 「帰省 〜Never Forget〜」

あまりにも「明菜」すぎた一曲

(98.02.11/ガウス/GRDO-10)


 98年作品。主演ドラマ「冷たい月」主題歌。 最高19位・9.4万枚。売上実績を見るに、ヒットという範疇に入れてもいいだろう。以来、現在のところ、この曲以上の成績をあげたシングルはない。

 ガウスエンタテインメント移籍第一弾シングルであるが、ディレクションは川原伸司、アレンジは千住明、ミキシングは奥原秀明、と、完全にMCAビクター時代の人脈で作られている。
 レコード会社の移籍に際して、心機一転、まったく新たなスタッフを集めて、というのがほとんどなのを、移籍元のスタッフを集めて、というのはとても珍しいケースだ。
 ここからガウスの音源制作能力が乏しかったことと、マネージメントの諸問題で、明菜がガウスへ移籍せざるをえない状況だったろうということ、が透けて見える (――ちなみにガウスは第一興商を母体とする新興のレコード会社であり、現在はその後第一興商傘下となった徳間ジャパンコミュニケーションズに吸収され、存在しない)。
 この曲は、MCA陣営から明菜へのはなむけという意味もあったのではなかろうか。



 なぜ中森明菜の歌が、あの自殺未遂事件以降、以前ほどの大ヒットを記録することはなくなったのか――。
 その理由は、いくつか、ある。
 その後、10年近くマネジメント・レコード会社等のさまざまな問題で、安定した歌手活動が難しかったこと。 その影響から、明菜本人の歌手活動への意志が以前ほど、活発ではなくなったこと。 さらに中森明菜の、歌手としての志向、歌唱法などが変化していったこと。 またヒット曲を生み出す状況の変化――歌番組が活動の主体であった中森明菜にとって、歌番組の激減は大きな痛手だったろう、もある。

 しかし、それよりもまして大きな理由が、ひとつ、ある。
 それは、「中森明菜」という存在が、中森明菜の歌う歌よりも、インパクトを持ってしまったこと。 これが一番大きいのでは、と私は、思う。
 どんな斬新な、今までにない、あっと驚くような歌を中森明菜が歌っても、 その歌よりも、「中森明菜」が――ゴシップ雑誌が伝える彼女の私生活や、芸能活動の内幕のほうが、勝ってしまう。 なにを歌っても「あの中森明菜が……」となってしまう。
 いいかえれば芸能人たる中森明菜の存在感、あの容易く触れることのできない危うい存在感が、中森明菜の歌をも凌駕してしまったのだ。



 ならばあえて「中森明菜」という存在そのものを一曲に閉じこめてしまおう。
 「帰省」という曲は、そういう意図のもと彼女が歌うことになったのではなかろうか――、と、思う。
 MCA時代の中森明菜のスタッフは、もともとそのことがよくわかっていたのだろう。 MCA時代の明菜の作品は、アルバムシングルに限らず、「中森明菜」という存在の重さを敢えて隠すことは決してなかった。
 しかし、それでいて、全体にほどよく含みと広がり、余裕をもたせ、バランスの取れた、ライトユーザーにも扉を閉ざすことのない作品に仕上げていて、よくいえば優等生的だった。
 その優等生の殻を破って、身も世もなく「中森明菜に中森明菜をさせてしまう」。
 最後のはなむけにあえて最もコアな作品を彼らは明菜にプレゼントした。



 ひとつの大きな挫折。生きる意味さえ失い、さまようわたしという魂、いまだその泥濘はつづき、暗闇は、果てしない。しかし、わたしはひとり歌う、愛を夢を。いつともしれない明日を信じて、ここで歌う――。

ドラマ主題歌としての宣伝効果もあり――またこの歌が「冷たい月」によくあっていた、この歌は、一定の評価をえた。 ファンの間では、名曲、と評価されることが多い。 ――が、正直、わたしは、この曲がさほど好きではない。
 曲・詞、ともにつめこみ過ぎ――テクニック、才能の乏しいものがほとばしる熱情だけで作り上げた、という印象があるし、 それが明菜の血を吐くような歌唱と重なると、それはもう「中森明菜」のドキュメント、としか思えない。
 あまりにも虚と実がぴったりとはりついていて、ただそれだけ、というか、聞き手が入り込む隙がない。
 「中森明菜が中森明菜を歌っている」
 それは確かなのだが、そこから先、ふつり、と、途切れてしまう、そんな印象を私は受ける。

 私小説は、ただの個人の私生活とその内面の暴露があればそれで成立するわけではない。 「わたし」というひとつの個に降りきった時に、立ちあがる普遍的な何か、それが描かれなくては、私小説とはいえない。
 「それは私であるが、もしかしたらこれを読んでいるあなたかもしれない――」
ここに至らない私小説は、私小説としての完成度は低い。

 この「帰省」という歌、まぎれもなく「中森明菜」の歌であるのは、確かだが、そこに多くの聞き手の感性に呼応しうる普遍性は、もちえているのだろうか。 はたして、なにもない状態、「中森明菜」のさまざまな予備知識、彼女の履歴や噂をなにひとつ知らずに、ただこの曲だけ聞いてはたして感動するだろうか。
 そう聞くと、この曲、いろいろと説明不足と説明過多の部分がちらつく。バランスが悪い。
 力作には間違いないのだが、どこか、力みすぎた力作という感じを私は受ける。



 ちなみにこの「帰省」、俳優・鈴康寛が、自ら作り個人的に歌っていたものを明菜用に詞の一部を変更した作品であり、隠れたカバーソングである(――オリジナルの鈴康寛版は未発売)。 どのような経緯をもって明菜にたどり着いたかまったく不明であるが、「歌姫」シリーズをプロデュースした川原伸司らしいプロデュースワークである。

加筆。噂によると、「帰省」作者の鈴康寛は、この時期、大瀧詠一・川原伸司主催のダブル・オーレコードでのデビューの予定があったという。レーベルの消滅で彼のデビューは立ち消えになったが、「帰省」だけが、川原伸司の手によって、中森明菜の手元に届けられたようである――が、なにぶん伝聞であるので、確かではない。

2006.07.07
中森明菜を追いかけてのインデックスに戻る