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中森明菜 「飾りじゃないのよ涙は」

決定的名曲

(1984.11.14/ワーナーパイオニア/L-1666)

1.飾りじゃないのよ涙は 2.ムーンライトレター


 名曲とはこういうものだ。
 この曲には様々な要素が内包している。

 まず当時ライバルの松田聖子。
 ちょうど1年前、彼女は「瞳はダイアモンド」をリリース。「瞳からこぼれる涙はダイアだ」と歌った。
 その返歌として明菜は「ダイヤと違うの涙は」と歌う。虚飾美へと向かう聖子とどこまでも実存的な明菜。80年代トップの歌姫としてこの対比は象徴的である。

 そして、山口百恵の「プレイバックPart2」。
 共に車中での1幕が詞のテーマとなっている。「プレイバック」では車がユーターンし、「飾りじゃないのよ涙は」ではスピンだ。
 「プレイバック」では一人車を運転しながら、昨晩の男との会話を腑分けする女がいる。
 一方「飾りじゃないのよ涙は」は男と共に車に乗りながら、男のことなど眼中にない。「私は泣いたことがない」にはじまる内面の腑分けは常に自己に終始し、男は書き割りほどの役割しかしない。
 ここに百恵と明菜の社会性と恋愛の質の違いが見える。百恵の恋愛は煎じ詰めるとパワーゲーム、明菜の恋愛は自己救済である。

 さらに「飾りじやないのよ涙は」のブギウギ/シャッフル系のリズムは笠置シズ子=服部良一のブギモノの系譜ともいえる。
 83年、井上陽水は「ミュージック・フェア」で明菜と競演し、「銀座カンカン娘」を歌っている。ここでみられた明菜のブギモノへの感度の良さを陽水は覚えていたのではなかろうか?

 また、「飾りじゃないのよ涙は」の車がスピンしてもぼんやりと揺れるスカーフを眺めるような、自分の命の危機の時でさえそっぽを向き、どこか他人事めいた俯瞰の視線で自分と周囲を見ている、その自閉した複雑な自我のあり方は「わたしの亡骸を見てあなたはどううろたえるかしら」と歌った西田佐知子「アカシアの雨が止む時」と同質である――というのは平岡正明の弁であるが。

 松田聖子、山口百恵、笠置シズ子、西田佐知子。ここに並んだ歌手を見ていくうち見えてくるものがある。彼女らは戦後の歴代非演歌系歌謡曲の女王である。
 そして、ここに名前のあがらない一人の歌謡曲の女王の名前が出てくる。美空ひばりだ。彼女は演歌系歌謡曲歌手の頂点である。
 つまり、ここで明菜は非演歌系歌謡曲を集成し、はじめて美空ひばりへの挑戦権の切符を手にしたと私は見ている。戦後直後、笠置シズ子が対決して以来、西田、百恵は引退で直接対決することなく終わったこの闘いの準備がここで整った。

 しかしこの対決が本格的に起こったのは88年のみであった。88年、ひばりの復活ドームコンサートと明菜の88年コンサートツアー「Femme Fatale」のVTRを両方見てみることを勧める。明菜があの時点で「東京ブギウギ」や「銀座カンカン娘」を歌ったのは伊達や酔狂ではない。――ちなみに一種の猥褻さを伴った往年のミュージックホールやキャバレーの近未来的再現であった「TATTOO」もこの対決の一端を担っていると私は見ている。あれが歌謡曲最後の歌姫頂上決戦であった。と、私は思う。


 かように名曲というのはどのような角度から捕らえることもできる。これが名曲というものだ。
 この曲は中森明菜でなければ成立しないが、しかしそれすらも乗り越えて残るだろう。カバーした歌手の多さが、それを物語っている。

 ――萩田光雄のアレンジ処理。特に打ち込みの処理の咀嚼のすばらしさ――1年前の「禁区」とは歴然の差、だとかボーカル処理の妙味とかは語り尽くされているので、今回はいいよね。

2003.11.13


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