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榊原史保美 「風花の舞」

わが青春の1冊

(1992.02.20/太田出版)


人には必ず青春の1冊というのがある。
若き自分を変えた運命の1冊。初恋の思い出のように、忘れがたき1冊。ずいぶんと歩いてきたはずなのに振り向くといつもそこにある1冊。
色々な小説と作家を愛している私だけれども、私にとってその1冊となるとこれになってしまう。
榊原史保美の「風花の舞」、今日はこの本の思い出などをつれづれに。



いつからか、わからない。気がつけばそうだった。
自分のいる場所が自分にとって酷く不当な気がしてならない。私はここに生まれるべきではなかったのではないか。そんな思いを募らせていた。
毎日が居心地の悪い椅子に座っているような不愉快で、納得のいかない日々。 生きていくことが億劫で、憂鬱で、惨めで、恥ずかしくて。今すぐにでも自分の存在を丸ごと消して、私と出会った人のなかにある私の記憶を消去してしまえるのならどんなによいことか。 そんなことばかりを考えて俯いて日々を過ごすようになった。

それは思春期にありがちな懊悩だ、と今ならいえる。
誰しもが若き日に心のなかでひそかに育てる疑問の種子、そうした疑問の種子はいつしか生死であるとか、愛や運命といったよくいえば哲学的・宗教的な、悪くいえば抽象的で妄想的な疑問へと変わっていく。
曰く、何故人は生きていくのか、愛とは一体なにか、死とはなにか、人生とはなにか、…………。
そんな答えのない堂々めぐりの果てに、やがて自分に対する嫌悪という最も矮小な部分だけが残り「早く自分など死ねばいい、そうすればこんなくだらない悩みなど消え去るのに」と幼く不遜な考えに辿りつく。
その頃も私もそうだった。



榊原史保美の書く物語の主人公――――たいていが美しき少年であるのだが、はいつも静かに全てに絶望していた。
一見充分といえるほど恵まれた環境にいる彼は、心に闇を持ち、今の自己を嫌悪し、周囲を静かに憎み、それでもなにも変わらないことにわかりきって諦めきって、絶望していた。
その絶望の源は自己の出自であるとか、それに伴ってみちびきだされた現在の自己の周囲という、たえず自己の根源に根ざすものであった。彼らはいつも心のなかに底なし沼のような深く暗いものを持っていて、それをいつも静かに見つめていた。
そういった彼らの物語のなかには、心に潜む悪意が肥大化し、自己と周囲を切り刻み、破局たらしめ、終末を迎えるものも初期作品には少なくなかった。彼らはいつも最後、セックスの深い淵に身を沈め、世界を失い、自分を失った。
彼女の作品に出会ったはじめはそうした悪魔的な作品に私はカタルシスを強く感じた。―――デビュー作の「蛍ヶ池」や初期長編の「龍神沼綺譚」などそのさいたるものであろうし、また「鏡戀」、「月の水盤」「青い薔薇」「逢魔ヶ刻」「月の振り子」といった掌編もそのラインにあたるであろう。

そうした彼女の作品が絶望を乗り越えて「救済」というテーマを正面に据えたのはこの「風花の舞」がはじめてだったのではないだろうか。

いわゆるJUNE出身のやおい作家という範疇を越え、「耽美小説」という名に相応しくまさしく幻想的、耽美的な小説や、また今までとは少し毛色の違う青春小説などをものし、エンタテイメント作家としての技量を養い、一定の評判を得た頃に出されたのがこの長編「風花の舞」であった。



能楽の名門である葛城流の家元の跡取りである16歳の少年瑞生は、その才を周囲に認められながらも、ひとり孤独と絶望の淵に佇み、ある男と悪魔的なセクシャルな関係をむすんでいた。 その絶望は顔に浮かぶ歌舞伎の隈取りような不思議な痣となって顕れていた。彼は己を出自を表す惨めなカインの痣とその痣を憎みそして自分をにくんでいたのだった。 そんなある日、彼は京都の鞍馬にある六道寺での祭りの奉納舞で、新作を踊ることになった。その時彼の運命は回り始めることになる。

「人はみんな、救われるために生まれてくるんだ。誰一人の例外もなく」

この言葉を瑞生ははじめうつろな言葉だと冷笑した。
しかし、物語は流れ、彼は大きな悲劇に飲みこまれる。そのなかで自分を愛する者を今まで自分を育んできた大切な者どもを守りたい心の底から思った時、この言葉が真実であると気づく。
彼は自分を生きるために、大切なものを守るために、たった1つだけの願いをかける。それは自らの命をひきかえとした願いであった。……。



読んでいる間、わたしはよくわからなくなっていた。
後半部分は、私はずっと心がバラバラになりながらの拝読であった。
何故こんなに体中が引きこまれるのか、わからない。なんでこんなに震えているか、わからない。なにもかもが、わからない。私は真夜中にひとり、布団のなかで感動の嵐にもまれていた。

そして、読後、体中の細胞が生まれ変わったような感覚に襲われた。
目に入る全ての風景が鮮やかに飛びこんだ。
何故だろう。全てが正しい。どんな矛盾も苦悩も争いも悲劇も、この世にあるどんなあらゆることも全て正しい。そんなよくわからない思いに襲われた。
自分の求めていたジグソーパズルの最後のピースが見つかりしっかり嵌ったような、自分の引きずっていた足枷が取れてどこまでも自由に歩けるような、そんな気分になった。

無宗教である私はよくわからないが、宗教的秘蹟というのはもしかしたらこういう状態なのではないだろうか、と後になって思う。
きっと、この時の私はこの物語の主人公の瑞生が知ることになった仏教的な宗教哲学と宗教的秘蹟をそのまま読むことで追体験していたのだろう。
私は、砂漠の旅人が思わず水を飲みほすようにここに書かれている物語を宗教哲学を飲みほした。そして「救われた」と、心の底から感じた。

何故あそこまで私はこの物語に感動したのか、今となってはよくわからない。あの頃の悩みが今、ぼんやりとして見えないのと同じように、この物語に感動して自分というのも、よくわからない。ただ、16歳の私にとっては全てを薙ぎ倒す決定的な1冊であった。
以降、榊原史保美という作家は私にとってとっておきの特別な作家となった。



彼女の作品には様々の一定の決まったフレームがある。
主要な登場人物でいうならば、こうなる。

・主人公を弟のように慕う年長の青年……彼は常に現実世界をまっすぐに生きるライトサイドの人間として描かれる。彼は主人公の理解者たろうと努力するが、根本で主人公の苦悩を自分のものとできないので、理解の壁が常にある。彼は主人公にとって常に現実の象徴として現れる。

・主人公を危うい道へと誘う悪魔的な年はなれた大人の男性……彼はこの世を呪い、静かに復讐を誓って生きているかのような男である。主人公とは大きく年が離れ、セクシャルな関係を結ぶ場合が多い。彼は呪詛の象徴として、偶像崇拝のように主人公を愛する。彼のそばにいることは危険だと知りつつも、主人公にとっては自分のなかにある闇の部分を唯一理解してくれる者という思いが強く、離れがたい。主人公にとっての彼は悪夢のゆりかごのような存在である。

・主人公の理想的自我たる魂の双子の少年……彼は主人公のなかにある矛盾や懊悩を全て昇華したところに超然として存在しているように主人公に映り、彼との邂逅で主人公の少年は新たな局面へと至る。彼は物語の全てを掴んでいる象徴であり、彼のありようの帰結がそのまま主人公のその後に直結する。

つまりテーゼである年上のライトサイドの青年、アンチテーゼであるダークサイドの悪魔的な男性、この間で振り子のように揺れ動く主人公という現状がまず最初にある。 これは、主人公の「絶望」と「救済」との間に振り子のようにふらめく内面のダイナミズムとパラレルである。
そこにジンテーゼとして理想的自我たる双子の少年が現れる(―――ちなみに彼は主人公と同じような関係性を周囲ともっているという場合が多い)。彼が彼の物語を生き、ひとつの解答を出す。それを傍観者として傍らで見た後、主人公がひとつの解答を出す、という形で物語は昇華される。
―――さらに主人公を取り巻く周囲には政治的闘争という外的なダイナミズムが重なり、現実的な物語の進行を促せるというのも彼女の作品で忘れてはならない部分である。―――この「風花の舞」では能楽宗家の跡目相続の争いという問題がそれにあたる。


このようなある程度決まったフレームのバリエーションで彩られるのが彼女の物語であった。―――もちろん完全にこの形で括られるというわけではないが、物語の表層的な装いを剥いでいくと作品の多くがこうした形で語りうる要素を持っていた。
つまり榊原史保美という作家はずっとひとつの物語を作り続けていたわけである。 彼女の小説にある「救済」は彼女個人の救済とイコールだったのではなかろうか。 つまり、彼女は自らの苦悩を昇華せんがために、筆を執っていたのではないだろうか。私はそう感じずにはいられない。

「風花の舞」以降彼女は「火群の森」「荊の冠」といった長い救済の物語を数篇残し、いつしか小説を書くことをやめた。
そしてわたしも若い頃の純粋な懊悩を置き去りにして、年を重ねた。今では全て思い出の中、である。


2004.10.18
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