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メイン・インデックス歌謡曲の砦>書上奈朋子の死の欲動とアンサンブルプラネタの関係


書上奈朋子の死の欲動とアンサンブルプラネタの関係


書上奈朋子の2枚のアルバムから特に気に入っている楽曲を集めて、1枚のCDに焼いた。 今日はそれをずっとリピートで聞いていた。

それにしても本当に書上奈朋子の曲というのはやたらめったら官能的。否応なしに情動を烈しく揺さぶる。
んでもって、詞のモチーフがやたらめったら「死」。なにかっつうと死んだり、破滅したりしている。
官能と死ってのは、もともと近い位置にあるものだとは思うけれども、ここまで聞いていて死にたくなる曲ばかり作る作曲家というのも珍しい。―――ここでいう「死にたくなる」は「中島みゆきや山崎ハコの歌を聞いて死にたくなる」の「死にたくなる」とは別物よ、別物。 絶望の死じゃなくって、恍惚の死。自も他も、感覚も意識もなにもかもがドロドロに溶解して、すべてがひとつのなにかの塊になるような感じ。


マーラーや坂本龍一なんかも結構「来る」けれども、個人的に一番「来る」のは書上奈朋子。 この音につつまれたまま死ねたらどれほど幸せだろうと思わずにはいられない。
書上奈朋子は「生」は「性」であり「業」である―――あらゆる可能性と矛盾を内包したカオスであるとみなし、 「死」はあらゆる業を昇華する(――簡単にいえばチャラにする)唯一の救済とみなしているんじゃないかな。


さらにもひとつ思ったこと。
彼女がプロデュースしている「アンサンプル・プラネタ」の作品は、ちょうど書上奈朋子自身名義の作品と対する位置にあるんじゃないかな、と思った。

書上奈朋子は「アンサンプル・プラネタ」を一種のアイドルとして、イコンとしてみているんじゃないかなぁ、と思う。理想的で象徴的な「客体」。
プロデューサーである書上はアンサンブル・プラネタに対して「穢れてはならぬ」という意識を強烈に持って彼女たちの音楽を作りあげているように見えるのね。不思議と。
「ひとつの濁りもあってはならない」「赤児の肌のようにナイーブで繊細でなくてはならない」という。

それは禁欲的なノンビブーラート歌唱であるとか、あるいはアカペラという全体の「アンサンブル・プラネタ」のコンセプトからも読み取れるし、またひとつひとつ取り上げる楽曲やそのアレンジからもかんじられる。 穏やかで破綻のないユートピアの音楽を穢れのないうら若き女性の声帯を借りて再現している、というのが「アンサンブルプラネタ」の音楽なのかなぁと、そんな感じがあるわけなのよ。
ま、ゆえにアンサンブル・プラネタはどうしても「神に仕える修道女のコーラス」というイメージになってしまうわけだけれども。

つまり、矛盾ありまくり、世の汚濁をひっかぶりまくり、それでも泥沼から咲く蓮のように美しい「地の花」が書上奈朋子自身名義の音楽だとしたら、プラネタはひとつの穢れがあっても堕落してしまう「天の花」なのかな、と。 書上奈朋子にとってのアンサンブル・プラネタってのは、濁世を生きるからこそ夢見てしまう「天の花」なのではないかなぁ、と。

ただ、ドロドロとして人の匂いのきつい方が愛おしく感じるわたしはどちらかといえば、書上名義の作品の方が好きだったりする。
私は美しいものも好きだけれども、美しいものを求めてしまう者の不幸のほうがもっと好きなのだ。


2005.02.28
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